日 時:2013年3月15日(金) 人やモノが行き交うゲートである空港。そこで働く人々が日々どのようなことを感じているのか知りたい!ということで、福岡空港ビルディング株式会社のお二人にお話を伺いました。このプロジェクトのために2カ月に一度のペースで韓国と福岡を行き来したヨンドゥさん、福岡空港は「まるで自分の庭の一部のような感覚」なのだそうです。 |
福岡空港の国際線の出国者は、1日約4000人。 ヨン)こちらで5年間働いていらっしゃるそうですが、お客様の数の増減など空港での変化の流れを教えていただけますか?
ディルズさん)国際線というのは、世界的な事件があった場合、例えばSARSやインフルエンザやリーマンショックなどもそうですが、何か大きな事件があるとお客様が突然多くなったり少なくなったりします。そういうことが大体年に一度くらいあります。近いもので言えば、一昨年の東日本大震災ですね、本当に一時期ですけれど、少なくなった時期がありました。その後、順調に回復してきていましたが、昨年の情勢が影響して中国便のお客様が若干少なくなっています。
ヨン)外国へ出られる日本の方の増減はどのように変化していますか?
ディルズさん)この何年間の中でも今年は旅客数が増えているんです。LCC(格安航空)が福岡はどんどん増えていますので、お客様全体がかなり増えている状態です。韓国への路線も増えています。
江田さん)昨年出国した日本人が約92万人です。つまり、往復にすると180万人が国際線を利用していています。また、約56万人の外国の方が日本に入国しています。
ヨン)それだと1日どれくらいの方が利用されているのですか?
江田さん)1日ですと平均で約4000人出国して、4000人入国していますね。
ヨン)すごい数ですね。空港というのは沢山の方が利用されると思いますが、例えば韓国のお客様と何かトラブルなどがあったことはありますか?また、国によってトラブルの種類が違うのでは?と思うのですが、何かあれば教えていただけますか?
ディルズさん)韓国のお客様はこの数年、若い方がすごく増えてきています。若い世代のファミリーや学生さんなどがLCCなどを利用して日本に来られています。ブランド品などの買い物は韓国でされているようで、空港ではお菓子などを買われることが多いですね。特にトラブルがあるということはありません。逆に私が韓国に行った時に思ったのは、中国のお客様が多いと感じました。中国のお客様は団体で行動されることが多いので、その勢いというか日本人とはまた違ったパワーを感じましたね(笑)。
住宅地に近い空港。 ヨン)福岡空港は市内からとても近くて便利ですが、良い点と悪い点を教えていただけますか?
ディルズさん)まず、福岡のいいところは、あまり都会過ぎないけど、それなりに都会だとよく言われていますね。東京にあるものは、ほとんどのものは揃いますし、街がコンパクトなので買い物がしやすいという点と、海や山や温泉などの自然がすぐに行けるところにあるのが、福岡で暮らしている人からするとすごく便利です。
ヨン)逆に近すぎて不便さを感じたり、住民たちから空港に問題を提示されたりすることはないですか?
江田さん)街にすごく近い空港なので、朝7時から夜10時までしか空港は使えないんです。本来空港は24時間運用できるのですが、騒音の問題があるので福岡空港は利用時間に制限があります。また、できるだけ住宅地の上空を飛行機が飛ばないように北側、つまり海側から飛行機が入ってくるような航路になっています。それでもうるさいと言われることもありますし、風向きによってはぐるっと回って山側から空港へ入ってくることもあります。そういう時はやはり騒音の問題になりますね。
ヨン)福岡空港はいつできたのですか?
江田さん)空港ができたのは昭和20年(1945年)ですね。元々は日本軍が戦争のために作った空港でしたが、敗戦後アメリカ軍が使い始めました。1972年に民間の空港になりましたが、今でもアメリカ軍の施設が空港内にあります。今の国際線がこちらにできたのが平成11年ですので、14年前ですね。以前は国内線と同じ並びのビルに国際線もありました。
ヨン)福岡から初めて外国に飛行機が飛び立ったのはいつですか?また、外国から初めて福岡に入ってきた飛行機はどこの国からですか?
江田さん)昭和40年(1965年)、福岡と釜山の間の飛行機が初めての定期便ですね。
ヨン)おぉ、釜山ですか。その理由は近いからですか?
ディルズさん)おそらく距離が近いことと、日本に在日コリアンの方がたくさんいらっしゃったことが理由ではないかと思います。免税店にも在日コリアンの方がたくさん働いていらっしゃいます。留学生もいらっしゃいますし。韓国の方はとても身近ですよね。
ヨン)昨年から福岡と韓国を行き来していますが、すごく近くいので、韓国の人にもぜひ福岡の公演を観に来て欲しいと声を掛けています。そしたら、すでに多くの人が福岡に来たことがあると言っていました。何度も福岡に来ている人もいます。 ディルズさん)買い物も、特別なものというより、ご家族で来られて日用品などの普段に使われるものを買って行かれているようです。ドラッグストアなどによく行かれるという話は聞きますね。また、どのお店の何が美味しいかを韓国の方はご存じのようです。 福岡に来る外国人の半数は韓国人。 ヨン)たくさんの方々が空港を利用されていると思いますが、シーズンや国によってアピールするところが違うと思いますが、どういう戦略で福岡空港はアプローチされていますか?
ディルズさん)まず免税店の中ですと、国によって興味があるものが違います。例えば韓国の方に今いちばん人気なのは、お菓子なんです。中でも一番人気があるのは「ひよこ」です。国によって人気のあるお菓子はそれぞれ違いますね。なので、福岡空港だけでしか販売しない「ひよこ」を作ってもらったりしているんです。また、インターネットを通じて韓国の旅行代理店で、福岡空港のクーポンを配っていただいたりしています。それは中国に対しても同じようにしています。特に韓国の方はインターネットやスマートフォンをよく利用されているので、今後はそちらの方からのPRを考えようと思っています。
ヨン)利用客の多い国を教えていただけますか?
ヨン)それでは福岡から一番多く行かれる外国はどこですか?
ディルズさん)それも韓国ですね。今では日帰りで行かれる方も多くなっています。
ヨン)韓国に人気のお菓子は「ひよこ」だと伺いましたが他の国の方々にはどういうものが人気ですか?
ディルズさん)中国の方に人気なのは「白い恋人」という北海道のお菓子です。福岡のお菓子ではないですが空港には置いているんです。南方の国の方に人気のお菓子は、これも北海道のお菓子ですが、「ロイズ」というチョコレート。特にタイやシンガポールの方には「ロイズ」のお菓子が人気です。
ヨン)おもしろいですね。なぜそれらが人気なのでしょう。
ディルズさん)「ひよこ」は福岡のお菓子なので人気なのは私たちにとってはとてもうれしいことです。他の空港で韓国の方が何を買っているかというのは調べてみないとわからないですが…。“福岡だからこれを買いたい”というお客様よりも、“日本なので日本のお菓子を買いたい”という方が増えていると思います。ちなみに、台湾の方に人気なのは「東京バナナ」です。本当だったら「東京バナナ」は東京でしか販売しておらず、福岡市内のどこにも売っていないのですが、空港の免税店だからこそ販売している商品なんですよ。
滑走路が一本の空港では、発着便の多さは日本一。 ヨン)外国から福岡の国際空港にどれくらいの飛行機が到着していますか?
江田さん)1週間で200便くらい到着します。1日だと27~8便ですね。
ヨン)国内線で他の都市から福岡へ到着するのはどれくらいですか?
江田さん)1日180便くらいですね。180便便到着して180便出航しています。ピーク時には3分に1回発着か到着があります。 ヨン)それは日本国内の空港では多い方ですか?
江田さん)滑走路が一本では日本一です。ただ羽田や他にも滑走路が何本もあるところを合わせると、国内線ですと福岡は5番目です。国際線も5番目くらいですね。
ヨン)思った以上に多いですね!
江田さん)今年はさらに増えています。国際線の利用客が一昨年250万人だったのが、昨年は300万人になっています。国内線も増えていますので、1700万人くらいの利用客の数になると思います。そうすると国内線、国際線を合わせて日本で3番目か4番目くらいになると思います。
ヨン)福岡が何か特別なものを持っているから多くの方が来られるのではないかと思いますが、どういう魅力があるからだと思いますか?
江田さん)国内の方は、観光と言うよりもビジネスの関係が多いのだと思います。福岡に入って九州各地に行かれる、ということが多いようです。福岡へは飛行機の便も多いですから便利なのでしょうね。もっと地方に行くと飛行機の便が少なかったりするので。
ヨン)なるほど。少しおかしな質問かもしれませんが…もし福岡空港から“最後の便”が出発するとなった場合、どういうものを持っていかれますか?逆に、外国から帰ってくる時に“最後の便”で何か日本に持ってくることが出来るとしたら、どこの国から何を持ってきたいと思いますか?
江田さん)そうですね…日本から持って行くものは、私は福岡だったら「あまおう」という苺があるんですが、とても美味しくてみんなに食べてほしいのでそれを持って行きたいですね。そういう美味しい食べ物を持って行きたいですね。外国から持ってくるものは…私だったら「韓国海苔」を持ってきたいですね。大好きなので(笑)。
ディルズさん)難しいですね(笑)。精神的なものとすれば、人と接することが好きな国民性が日本にも韓国にもあると思いますが、そういうホスピタリティーというのが日本はすごく高いと思いますので、それですね。物だったらお米ですね。特に欧米に行くと美味しいお米が無いので。持ってくるものは…どこの国も一緒かもしれないですが、時代によって教育の仕方が変わってきていると思うのですが、今はグローバルなものを求められているのに、日本の子供や若者はそんな風にはなかなか育っていないのかなと感じるので、そういうグローバルスタンダードというものを持ってきたいですね。 空港は人と人、国と国の交流がなされる、 ヨン)空港で働いていらっしゃいますので、たくさんの外国人と接していると思います。例えば、ニュースなどで日本や外国でデモの様子などを見たとき、どういう気持ちになりますか?
江田さん)早く解決して欲しいなと思いますね。それは話し合わないと解決しないと思いますし、歴史的な背景というのは、どれが本当でどれが事実ではないか、というのは、いつの時点でそれを見るかで変わってくるので、過去のこともそうですが、これからのことを考えながら話し合うべきではないかと思います。
ディルズさん)私もたくさんの方と接触することが大事だと思っています。何度も会っていたとしても誤解が生じることもありますが、たくさん会っていく内に国境を越えてお互いが理解できる繋がりができるんじゃないかと思います。
ヨン)空港というのは外から何かが入ってくる、そして何かが出て行く場所ですよね。そういう場所だからこその良いところと悪いところは何だと思いますか?
江田さん)空港で働いている私としては、いろんな国の人を身近に感じられるのですごくうれしいんですね。到着した方をたまにお出迎えをすることがあるのですが、心が通じ合うようなことがあって、こちらもうれしいし相手にも喜んでもらえる。また帰られる方たち、日本から出て行かれる方たちを見ていると、こちらも楽しい気持ちになります。そういう気持ちの交流がなされるという意味でも、空港は福岡になくてはならない場所だと思います。
ディルズさん)私も同じようなことを感じています。困ることや悪いところはあまり感じていません。国際交流という意味では良いところの方が多いです。福岡に来ていただく外国の方にとって、初めて見る日本、最後に見る日本が福岡である限りは、私たちはいい印象を持っていただきたいと思います。たぶん、空港のどの場所で働いている職員もそういう気持ちでいてくれていると私は思っています。あとは、空港だけではなく、福岡市内のいろんなお店や観光地の人たちも、外国の人たちに接する機会が昔より増えていると思うので、そういった意味では様々な国際情勢で国と国との問題というのはその時々でいろいろありますけど、人と人の間にはそういう壁はないのかなと。ですので、小さいところの交流からやっていければと思っています。
ヨン)空港で働かなかったらどういう仕事をされていたと思いますか?また、日々こういうことをがんばっています!というようなことがあれば教えてください。
ディルズさん)私は元々人に関わる仕事がしたいと思っていましたし、海外の人と関わる仕事がしたかったので、この仕事をしていなかったら何をしていたかはわからないですが、漠然とそういう仕事がしたいと思っていました。今いる会社にはいろんなセクションがありますが、以前はシステムのセクションにいたんですね。そういうところだとあまり人とは関わらないような感じはするんですけど、そういうセクションにいたとしても、色んな人がいますし、例えば何かトラブルがあったとしても、人と接している限りはあまりそれを苦労とは思わないんです。結構わがままを言われるお客様もいらっしゃいますけど(笑)。それを大変だと思うことはあまりないですね。
江田さん)私はこの仕事じゃなかったとしても、福岡で仕事をしていると思います。福岡が大好きですし、福岡にずっと住んでいたいと思っていたので、福岡に本社がある会社や福岡のためになるような仕事をきっとしていたと思います。
ヨン)なぜ福岡が好きですか?
江田さん)お祭りが楽しいですし、食べ物も美味しい、そして人がとてもおおらかというか人情味がある。子どもたちもこの環境で育てたいと思いますね。それらがあるからこそ福岡だったのだと思います。がんばっていることは…福岡はスポーツもすごく盛んな街なのですが、私は少年ラグビーチームのコーチをしているんですね。18人生徒がいますが、出来る子がいたり、出来ない子がいたり。でもみんなにラグビーを好きになってもらうには怒ってばかりでもダメだし、褒めてあげたりもして、出来なかったことが出来るようになっていくのを見ていくのが楽しみでもあるんです。なかなか自分の時間が取れなくなったりもしますけど、そのコーチという仕事は楽しいですね。
ヨン)それは素晴らしいことですね。今日はお忙しい中、長い時間お話を聞かせていただいて本当にありがとうございました。
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日 時:2013年3月15日(金) |
インターネットの普及があるからこそ、 ヨン)今ではネットなどを通じて連絡を取り合う人が増えてきて、以前よりも郵便物が減っているのではないかと思いますが、ネットが発達する前と後では、郵便物の数はどのように変化してきたのでしょう?
吉村さん)確かにインターネットは早くて便利ですので郵便物の数も減っていますね。日頃の簡単なやり取りはインターネットやテレビ電話を使われているのかもしれません。が、たとえば海外にお孫さんが住んでいらっしゃるおばあちゃんが来られて、お孫さんのお誕生日などの特別な時に手書きのメッセージが入った心のこもったカードを出されたり、クリスマスの時期には手書きのカードに日本らしい切手を貼って渡されたり。そういう心のこもったお手紙は、受け取られた方もうれしいと思うので、数は減ってきているかもしれませんが、インターネットが発達している分、手紙の良さというのも改めて見直されているのかなと思います。
ヨン)韓国には兵役があって、その時は友達や家族に会えないので手紙を送ったりもらったりします。そういう時の手紙は、やはりうれしいですね。郵便局や手紙の役割はとても大切だと思います。福岡から外国へ送られる郵便物の数と、海外から福岡へ送られる郵便物の数では、どれくらいの差がありますか?
小屋迫さん)圧倒的に到着の方が多いですね。特に海外から送られる郵便はビジネス用が多いです。福岡からはEMSという荷物を運ぶ物も含めて中国、韓国宛ての郵便が多いです。ですから、私たちもそのサービスを強化していますね。
ヨン)たとえば福岡に住んでいる韓国や中国の方が自分の国に荷物を送る時、どういう物を送られることが多いですか?
吉村さん)衣類や日用雑貨などが多いですね。あとは福岡のお菓子などの食料も多いです。
ヨン)私達が小さい頃、韓国では手紙を書いてその下に配達される方に「ありがとうございます」「感謝します」という言葉を書いたりしていました。郵便局で働いていて郵便局が在る意味を感じるのはどういう時ですか?
吉村さん)私は窓口にいますので、お客様が出しに来られる郵便物を引き受けるのが仕事です。窓口にいて一番感じることは、例えば韓国に住んでいる家族へ福岡のお菓子を食べさせてあげたいとか、実際に私の仕事は荷物を引き受けるだけなのですが、そういう心のこもった贈り物をされる時に、自分が少しでも関われるということはうれしいですね。
ヨン)反対に仕事をされていて大変なことはありませんか?例えば外国の方の言葉がわからなくてやりとりが大変だったとか。外国の人には事前に郵便局はこういうところだと理解した上で来てほしいと思うことはありませんか。
吉村さん)言葉は確かに難しい問題ですね。私は韓国語や中国語はよくわかりませんので、来られた方も日本語があまりわからない場合は、英語でのやり取りになるのですが、英語もお互いに母国語ではないので、なかなか伝わりづらい時があります。でも、できる限り努力して、どうしても解らない場合は、社内に中国語や韓国語が堪能な社員がいますので、助けてもらったりしています。
ヨン)海外から送られてくる郵便物の数はどれくらいですか?
小屋迫さん)海外から到着した荷物や郵便物は、国内に到着した時点で、配達までの経路が国内の郵便物と同じになるんです。なので、実は詳しくはわからないんです。
ヨン)では海外に出す量はどれくらいですか?
小屋迫さん)福岡中央郵便局の窓口で預かるのは、手紙や封書は1日で15~6通だと思います。EMSなどの荷物が30通くらいですね。ただ、それは窓口で直接受け取る数で、それとは別に直接ポストに入れられるものもあります。ポストに入れられる数の方が多いと思います。
ヨン)思ったより少ないですね。郵便局の方のお仕事も減ってきているのではないかと心配ですが…。
小屋迫さん)インターネットの普及などもあって、確かに郵便物の数も減っていますし、作業自体の数も多少は減ってはいます。ですので、時代や状況に応じた対応をしていかなくてはと思っています。
ヨン)人がたくさん来れば仕事も増えますね!
小屋迫さん)そうですね(笑)。 大切な人へ贈り物や手紙を届ける、 ヨン)これからたくさん手紙を送るようにします(笑)。郵便局は昔からあったものなので考えにくいことかもしれませんが、もし郵便局が世の中からなくなったとしたらどんなことが起きると思われますか?人々はどういう風に自分の気持ちを誰かに伝え、受け取るでしょうか。
吉村さん)あまり考えたことはありませんでした…郵便局はあって当たり前のような存在ですからね。生まれた時から必ず近所にあるものでしたから、もしなくなるとすると不便ですよね。お中元やお歳暮など日本人特有の贈り物も困るでしょうし、手紙などの自筆のものを送ることが出来なくなると遠くにいる家族とも手紙のやりとりもできなくなりますし。寂しくなるんじゃないかと思いますね。
ヨン)メールよりも手書きで書いた手紙を受け取った方が喜びはとても大きいと思うんです。郵便局がなかったら誰かが送った物を受け取ることはできないし、私が送った物を相手に届けることもできない。そうすると私と相手を繋いでいる糸が切れてしまうようで、寂しくなると思います。そんな風になると思うと、人はどんなことを思うんでしょうね?
吉村さん)ちょうど今のように春の時期というのは、新しく学校に入ったり、社会人になったりする季節です。そんな孫たちにおじいちゃんやおばあちゃんが頑張ったねと贈り物と手紙を添えて送るとか、そういう、人との繋がりを感じる時期なんですね。そういうことって大人になっても思い出しますよね。なので、そういうものがなくなると寂しいかなと思います。手書きだとその人の味がありますよね、個性というか。その地方の方言などもありますし。
小屋迫さん)歴史的なことを言いますと、郵便事業が始まって150年経っているんですが、全国津々浦々にネットワークを維持しなさいというのが、法律で義務づけられているんですよ。インフラとして郵便局をなくしちゃいけないというのが義務づけられているわけです。そのために頑張って郵便の利用を増やして、ネットワークが維持できるように経営上も色々考えてやっているというわけです。
ヨン)郵便局をよく利用するのですが、郵便局で人と人がどういう風に出会えるか、人と国がどういう風に出会えるかということをよく考えます。郵便局にはそういう人と人、人と国を繋げてくれる役割があるのだなと。ところで、郵便局ではどういう方法を使って、これから郵便物を増やして頂こうと思っていらっしゃいますか?また、一般の方々が知らない、私たちはこういうことまで頑張っているんだと、利用する人に解ってほしいということがあれば聞きたいのですが。
小屋迫さん)ご利用いただくためには、お客様に満足していただけるサービスをいかに良質に提供できるかということが一番の基本だと思っています。お約束した日数でスピーディーに確実に届ける。それが一番大事なこと。それに尽きると思います。そうして郵便の利便性をまずは解っていただいて、その上で手紙っていいなと感じていただける努力をこれまでもしてきましたし、これからも続けていくということだと思っています。
吉村さん)私は窓口でお客様と直接応対できるところにいますので、人と人の最初の繋がりを大事に、と思っています。窓口で対応する人を気に入ってもらえると、また郵便局に行ってみようと思っていただける。それは“確実にお届けする”という信頼があってこその、プラスアルファの部分になるとは思うのですが、人間として、人として、コミュニケーションが取れるような窓口作りというか、ただ手紙や郵便物を受け取るだけではなく、さらに人としても愛していただけるような繋がりも大切にしていきたいと思います。
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日 時:2013年3月11日(月) |
文化の違うもの同士が一緒に生活をする、 ヨン)お時間を作っていただきありがとうございます。去年から福岡と韓国を行き来しながらいろんなことを感じているのですが、その中でも「福岡や日本という国はどういう場所なのか」ということとを考えていて、日本人ではない方にそのことについてお話をお伺いしたかったのです。
ドリアーノ)今でもイタリアと日本を行き来していますから、そこまでは感じていないですね。一度、4年間くらい帰らなかった時は、友人や家族に会いたいと思いましたが、国を恋しいという感じはありませんでした。国というよりは友人や自分の家族に会いたいと思いますが、今の時代はスカイプもあるし昔ほど遠くは感じないので、そこまで恋しく感じることはないですね。
ヨン)ドリアーノさんは筑前琵琶という楽器に出会ってから人生が変わっていったと伺っていますが、それはイタリアで出会ったものですか?
ドリアーノ)日本に来てからですね。当時は日本に長く居るとは思っていなかったですね。というより、そこまで考えていなかったんです。生活することは簡単ではないなと思っていましたし、住んでも1年くらいかなと。
ヨン)日本に来るきっかけはどんなことだったのですか?
ドリアーノ)イタリアで日本人の女性と結婚して、2年間一緒に住んでから日本に来ました。ちょうど私の仕事も空いている時期だったので。
ヨン)奥様と出会ったきっかけは何だったのですか?
ドリアーノ)僕はイタリアで人形劇をやっていたんです。ルネサンス時期など古い家具を修復している友人の店があって、そこで時々アルバイトをしたりして手伝いをしていたんです。その友人が僕がやっている人形劇が好きで、劇に使う人形の手の部分を店に飾ってくれていたんです。それを気に入ってくれた日本人の女性と出会いました。それが初めての出会いですね。
ヨン)結婚することになって、当時、外国人と結婚することにまわりはどのような反応でしたか?
ドリアーノ)私の家族は特別な反応はなかったですね。
ヨン)同じ国の人どうしでも結婚すると大変なことがたくさんあると思います。文化の違う二人が出会って一緒に生活をしていくことはもっと大変だと思いますが、お互いの文化が違うことで生じた誤解やハプニングがあれば教えていただけますか?
ドリアーノ)その時々、その人それぞれで、みんな違うと思うんですけど…もちろん私達にも違いはありましたが、文化が違うことが大きなプラスになっていたと思います。日々、お互いの違いを見つけたり知ったりすることがとても新鮮でしたね。よく結婚したら毎日同じで飽きていくのではないかと言われますが、私達にはそれはなかったですね。 異色だった日本のイメージが、
ヨン)文化が違うことを楽しんでいくことは大切なことですね。イタリアにいらっしゃった時、奥様と出会う以前、日本やアジアに対するイメージがあったと思います。反対に奥様にもイタリアに行く前に持っていたイタリアのイメージがあったと思います。お互いに出会い、結婚してそのイメージはどのように変化していきましたか?また日本に住んでみて変わっていったイメージがあれば教えて下さい。
ドリアーノ)当時のヨーロッパ、特にイタリアのメディアで紹介されている日本のイメージは、あまり良くなかったですね。テレビや新聞を読んだりするだけでは、日本に行ってみたいとは思えませんでした。当時は、日本人が仕事の前に会社の歌を歌ったりしていて、なんというか、軍事的というのでしょうか、そういうイメージが強かったです。あとは東京の地下鉄の満員電車の様子など、日本というとワンパターンでそういうイメージしか紹介されていなかったんです。そういう時代だったんですね。だから日本人はみんな仕事ばかりしている印象だったのですが、彼女に出会った時にはそんなイメージは全く無かったので、逆に興味が湧いてきたんです。それで日本に来てみたら、もっと日本のことを好きになりましたね。
ヨン)これから日本に来たいと思っている人や住んでみたいと思っている人に、日本で生活する時のアドバイスがありますか?
ドリアーノ)難しいですね(笑)。西洋人は自分たちが世界の中心だと思っているので(笑)、そういう部分を抑えて、日本の文化をいい意味でも悪い意味でも受け入れることですね。西洋人だけではないとは思いますが、自分の価値観の物差しで全てを計ろうとせず受け入れることを意識して欲しいですね。
ヨン)反対に日本や福岡に来た外国人に対して、こんな風に対応してあげたらいいというアドバイスがあれば聞かせて下さい。
ドリアーノ)それも難しいですね(笑)。日本の場合は、言葉で“外人”という単語があります。外人という言葉は、日本人以外の人のことを指します。だからイタリアにいるイタリア人も、アメリカにいるアメリカ人も“外人”です。でもイタリアの場合は、イタリアに来ている外国の人のことは“外人”と呼びますが、日本にいる日本人や、アメリカにいるアメリカ人のことを“外人”とは言いません。なので、日本人と話をするときに出てくる“外人”という意味がピンとこないことがありました。日本人以外の全世界の人たちのことを指してますからね。それは不思議な感じがしますね(笑)。でもよく聞くと日本人が“外人”という言葉を使う時、それは西洋人をイメージしていますね。たとえば、中国の人は“中国人”ですし。同じ外人の中でも、カテゴリー分けというか階級分けされているように思います。だから出来るだけ外国の人に対してフラットな気持ちで接して欲しいとは思います(笑)。
ヨン)別の質問ですが、日本の食べ物では何が好きですか?
ドリアーノ)好きなものはたくさんありますが…最初から嫌いな食べ物は納豆ですね。ねばねばするものは苦手ですね。今はイタリアにも日本料理の店がたくさんありますが、昔はあまりなかったので食文化をきちんと知ることは出来なかったんです。だから日本に来て半年くらいは、大変でしたね。
ヨン)特に一番好きなものは何ですか?
ドリアーノ)一番好きなのは寿司ですね。でもどんな寿司でも好きなわけではなくて、決まったお店の寿司が好きです(笑)。美味しくない寿司を食べるくらいなら焼そばの方がいいですね(笑)。
ただイタリア文化を伝えるのではない、
ヨン)人形劇をされていたというお話だったので、言語が持つ力や重要さをご存知だとは思いますが、今ではイタリアに住んでいた期間よりも日本で暮らしている時間が長いですよね?言葉の不自由さはもうないとは思いますが、日本に来た当時、自分の思っていることや気持ちをうまく表現できなくて大変だったことを教えていただけますか?
ドリアーノ)日本に来た時は「さよなら」という言葉しか知りませんでした。だから最初は大変でしたね。日本に来て半年ほど経った時に筑前琵琶に出会って、琵琶職人の弟子になって一日中、その先生の日本語と言うよりは博多弁を毎日聞いて、少しずつ覚えたのですが、一人で漢字を勉強したりしていました。日本語の学校には行っていないですね。本当はもともと自分がやっていた演劇や人形劇をやりたかったですけど、無理だと思いました。言葉が操れないとそれらは全くできないですからね。だから言葉を覚えるまでが大変だとは思います。なので、今、ようやく日本人と一緒に演劇の翻訳をやったりしていますね。僕は翻訳は二人でやらないといけないと思っています。どちらにも母国語がないと、本当の意味での翻訳はできないです。
ヨン)こういうセンター(イタリア会館)を始めようと思ったきっかけを教えていただけますか?この相互の国の文化を伝えるセンターをやっていて一番うれしかったこと、一番大変だったことを聞かせてください。
ドリアーノ)僕は1974年に日本に来ました。当時はイタリアというと、日本のみなさんのイメージの大部分は“スパゲッティ”でした。ミケランジェロでもなく、レオナルド・ダ・ビンチでもなくて(笑)。そのストレスは大きかったですね。そのスパゲッティもイタリアのそれとは全く違うものでしたし。ナポリタンとかね(笑)。
ヨン)ドリアーノさんはイタリアのどちらの地方の出身ですか?
ドリアーノ)生まれたのはサルデーニャという小さな島ですが、子供の頃から育ったのはローマです。
ヨン)イタリアにいらっしゃる時は人形劇が専門だったのですか?
ドリアーノ)元々はクラシックギターで音楽をやっていました。7年間の学校だったのですが、5年目の時に人形劇をやっているイタリアで有名な劇団にいた友人が病気になって、代わりに行ってくれないかと言われて手伝いに行ったことが始まりでした。そこから僕の人生が変わりましたね。当時は何も知らず手伝いに行き、初めて人形を操ったのですが、それを褒められて(笑)。以来、音楽をやめて、その劇団に入りました。人形劇は子供の劇ではなく、大人向けの劇ですね。(ウラジーミル・)マヤコフスキーとか(サミュエル・)ベケットとかの作品を人形劇にしたものです。そこに2年くらい在籍して、その後自分の人形劇団を作りました。人形劇の劇団です。それでヨーロッパ中で公演をしていました。 ヨン)最近、また人形劇の世界に戻りたいという気持ちはありますか?
ドリアーノ)ないですね(笑)。
ヨン)それは人形劇に対して興味がなくなったのですか?それとも長い間やっていないので諦めてしまったのでしょうか?
ドリアーノ)そのどちらでもないです。私たちがやっていた人形劇は、政治モチーフに社会を風刺したものが多かったのです。それは自分の国では共感を得られますが日本では無理ですね。もちろん日本ではそういうことはできないですし、第一、もうそういうことに興味がなくなりましたね。
ヨン)今、国籍はどちらにありますか?
ドリアーノ)イタリアです。永住権を取得しているだけです。
ヨン)例えば国籍を変えたいと思った事はありますか?
ドリアーノ)昔は永住権を取得することも大変だったのです。私は琵琶を作っていて、後継者が私一人になってしまった、だからもらえたんですね。以前は永住権を取るよりも永く日本に住むのなら帰化して国籍を取った方がいいと言われましたが、それはしたくなかったですね。
ヨン)現在、筑前琵琶作りは、弟子たちに教えられているのですか?
ドリアーノ)琵琶を作ったり修復したりはしていますけど、教えていないですね。今は新しい琵琶を作るよりも、昔のものを修復する方が好きですね。修復は、昔のままに修復しないといけないので、ごまかしが効かないんです。昔は琵琶も職人たちが競って作っていましたので、本当に素晴らしい美術品のような楽器がたくさんありました。例えば琵琶の糸巻きがあるのですが、その部品ひとつが素晴らしい美術品なのです。それが壊れた時、昔と同じにはできないので、それを外して別のものを使って新たに作る。それは“修理”ですね。でも私がやっている“修復”というのは、その部品を何ヶ月かかっても元通りにすることなんです。今では作り方も解らなくなっているものを、試行錯誤しながら元通りにする。その作業が楽しくて仕方ないですね。
国籍は関係なく、人間同士の付き合いで大切なのは、
ヨン)私は日本を行き来して10年くらいになりますが、いつも思っているのは、どうしたら先入観無しで人対人で出会えるかということなんです。最初は「国などは関係なく、人と人が出会えたらいい」と思っていたのですが、最近は「日本の人、イタリアの人と認めた上で出会った方が、人と人がスムーズに出会える環境ができるのではないか」と意識し始めました。そこで、母国ではない国で長い間生活をしているドリアーノさんにお聞きしたいのですが、人がお互いの情報なしで、また違う言語の中でどういう風にしたらうまくコミュニケーションがとれると思われますか?
ドリアーノ)僕も日本に来たばかりの頃、同じようなことを考えていました。どこの国に行っても人は人だからと。でも人の後ろにはどうしても文化や生活があるんですね。教育やコンプレックスや嫌な経験とか、そんな色んな思いが複雑に絡まっていますから。だけど、それを解った上で、お互いを知ることが大事ですね。これは日本で学んだことですが、自分が控えめにして相手から受け取るようにした方がスムーズにコミュニケーションが取れる。特に違う文化の人に出会った時には、好奇心を持たないと人と出会う必要性がなくなると思うんです。
ヨン)少しへんな質問かもしれませんが…もし日本とかイタリアにあるもので、仮に地球から離れないといけなくなった時にこれだけは持って行きたいと思うものは何ですか?日本とイタリア、それぞれで教えていただけますか?
ドリアーノ)それは日本でもイタリアでも同じですが、“女性”ですね(笑)。
ヨン)次は反対に、日本やイタリアでこれだけは無くして欲しいと思うものはなんですか?
ドリアーノ)イタリアだったらいっぱいありますね(笑)。ただひとつとなると・・・・。イタリアの場合は、“適当さ”でしょうか。少しいい加減な部分がありますから。日本はその逆ですね。カチカチのところはもう少し余裕を持ったらいいのではと思いますね。
ヨン)今、演劇やダンスの創作で、色んな部分を合わせていく作業をしているのですが、作品の全体を見失いかけているように感じていました。今日お伺いした話で、見えていなかった全体像が少し見えてきたように思います。とてもうれしかったです。今回のインタビューで、作品の本質を見直す機会になりました。貴重なお時間をいただいてありがとうございました。
ドリアーノ)さっきの話ではないですが、人と人の付き合いで大事なことは、目を見て話をすることです。私もヨンドゥさんの目を見て、とても興味を持ちました。
ヨン)また、ゆっくりお話を聞かせて下さい。また公演前にもここにまたお邪魔させていただきたいと思います。今回は本当にありがとうございました。
テキスト:筒井亜耶 |
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日 時:2012年7月30日(月) 場 所:福岡市役所 奥田正浩さん(福岡市 住宅計画課長) 「街とは一体だれがつくるものなのか」という観点から、行政の立場でそのことを専門的に考えている市役所の方にお話しを聞いてみよう、とインタビューをおこないました。奥田さんは10年ほど福岡市の街づくりに関わる仕事に従事していらっしゃるそうです。「2012福岡の都市計画」という資料に基づき、福岡市の特徴や、都市計画がどのように立てられ実施されているのか、説明していただきました。 |
福岡市とは、どんな街なのか。
市役所職員・奥田さん)場所的には福岡と釜山は対馬海峡を挟んで、向かい合っています。当然、昔から行き来がありました。福岡の場合は都心部も含めほとんどが埋め立て地で、昔は袖の港(そでのみなと)という港があり、ここを中心に博多の商人が韓国や中国との貿易をやって栄えてきた街なんです。
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日 時:2012年7月30日(月) 場 所:市内の通販会社事務所 直村信一さん(通販会社代表取締役) 「物や人が国と国とのあいだを行ったり来たりすること」に強い関心を持っているヨンドゥさん。韓国や中国から商品を仕入れ販売する会社を経営なさっている方にお話を伺いました。この方は実は韓国生まれで、子どもの頃に日本に渡ったとのこと。その頃の経験も話してくださいました。
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日本で事業に成功している在日コリアン。 ヨン)私も日本に来る度、勉強して帰っています。韓国だったら、ひとつのアイディアを出して、すぐに実行する原動力がある国ですが、日本の会話の習慣、計画性のある仕事のやり方の習慣は、韓国人は勉強しなければならないと思います。
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日 時:2012年7月29日(日)
場 所:市内の韓国料理店 福岡在住のアーティストの方 この日は、福岡を拠点に活動するアーティストの方とお会いし、韓国料理店で食事をしながらのインタビュー。この方のおばあさんは実は韓国・済州島のご出身。日韓にまたがるルーツを持った若い世代がそのことをどのように捉えているのか、またどのような未来を描こうとしているのか、ヨンドゥさんにとってもパワーをもらえた時間だったようです。 >続きを読む |
知りたいのは、人間の中にある“ただひとつ”のこと。
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日 時:2012年7月28日(土) 場 所:九州大学箱崎キャンパス 津田三朗さん(九州大学大学院芸術工学府 技術専門職員) 福岡のアートシーンのさまざまな場面で活躍している津田さんに、九州大学箱崎キャンパスの歴史的な建物などを案内していただき、インタビューをおこないました。このときの出会いがきっかけで、3月の公演を九州大学内でおこなうことになりました。 |
作品の舞台は、日本の歴史を包括する「九州大学」。 この時、彼に出会ったことで、創造のその先が見えてきた。 津田)僕は元々福岡の人間ではなく、関西の兵庫県淡路島の出身なんです。中学高校の頃は、在日の人との付き合いがあったんです。僕が子供の頃に住んでいた淡路島ではないですが、お世話になっていた親戚のおじさんたちは韓国の人たちと住んでいる所がすごく近かったんです。近くの川の対岸には韓国の人たちの集落があったことを覚えていますね。他にも中学の時の友達が北朝鮮に帰っていったりして、「木下くん」ではなくて「パクさん」に名前が変わることとか、そういう事がその頃よくありました。関西だったこともあり、そういうことが身近にあったんです。でもやっぱり印象に残っているのは、おじさんの家の近くにある川の向こう側なんです。そこでは豚を飼っていて豚の匂いがするのと同時に、2月になれば旧正月用のチマとか綺麗な衣裳が干されていて、それが風に舞っているシーンなどはすごく印象的なシーンでした。 ヨン)飛行機が落ちたところ、展望台など色んなところに連れて行っていただきましたが、なぜそこに連れて行こうと思われたのですか? 津田)今の僕は、さっき話したような子供の頃の記憶で出来上がっているんです。僕たちが見たものとか、聞いたことで僕らの身体は出来上がっていて、九州大学もたぶん、そうやって出来上がって来たと思うんです。だから九州大学の建物を見てもらいたいというよりも、九州大学の歴史をどういう風に捉えるのか。例えばさっきファントムの話もしたし、九州大学であった生体解剖の話もしました。でもどうしてもそれをやらなければならなかった九州大学というのがあったんだけど、そのずっと前から建っている建物はそういう悪いこともいいことも全部をずっと見続けて来たわけだから、ひょっとしたらその建物の中に記憶とかが詰め込まれているような気がするんです。 ヨン)私にとってもいい時間でした。今おっしゃっている色んな経験や見ているものが自分自身を作っているという言葉に感動しました。韓国は戦争もありますし、韓国の中で古い建物というのは、あまり残っていないんです。資本主義というイデオロギーがあるので、昔の大切な記憶や大切な建物を守るより、新しい経済成長に集中しているんです。だから日本のように古い建物があまり残っていない。韓国の人の頭の中や心の中にはそういった古い建物もありますが、実際にそれを見に行って確かめ、手で触れて感じることはできないんです。ですから、こういう歴史的建物に刻まれた、いい記憶、悪い記憶、目に見えないけれど、長い時間、ここに建っていて歴史を持っている大切な建物がなくなるというのは、もったいないと思っています。 津田)僕も同じように考えていますよ。福岡という街には、残って欲しい物を効率とかで簡単になくそうとする、そういう一面もあるんです。京都の古い町とは少し違っていて、そういうところが、福岡の嫌いなところかもしれません。
福岡はかなりいい場所。だが、プロフェッショナルの絶対数が少ない。 納得のいく作品作りをして欲しい。
博多弁で「おうまん」=「Don't mind」
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日 時:2012年7月28日(土)
場 所:糸島市の漁港 「日韓のあいだにある“海”にまつわる仕事をして暮らしている方にお話を聞きたい」というヨンドゥさんのリクエストで、糸島の漁港で長年漁師をしている梅本さんにお会いしました。梅本さんはお父さん・息子さんと、三代にわたって漁業を営んでいます。お話を聞いたあとに、“お礼”としてヨンドゥさんが踊りを披露しました。青い空、潮の香り、波に揺れる船を背景に踊るヨンドゥさんに、見ていた犬も大興奮! |
日本と韓国を繋ぐ海。その海で働く人の話を、直接聞いてみたい。 海への想い、漁師という生業への想い。 ヨン)どうしても漁師さんたちに会いたかったんです。私は田舎育ちなので、農業をしているところをよく見ていて、やったこともあります。ですが、漁師さんには一度も会ったことがないので、どういう考えをしているか、どんな生活をしているのかがすごく気になっていました。福岡は海が近い街です。その福岡の中で漁師さんは一番大事じゃないかなと思って、今日インタビューをお願いしました。
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日 時:2012年7月27日(金) 場 所: 福岡市東区の団地 在日コリアン2世の方々7名 マンションの1室に、在日コリアン2世の皆さんが集まってくださいました。最初はお互い緊張していましたが、ヨンドゥさんの穏やかな語り口と皆さんの明るさですぐに場がなごみ、福岡の在日コリアンの歴史や、皆さんの生い立ちなどを語ってくださいました。最初の緊張感がまるでウソのような楽しい雰囲気で、ついにはヨンドゥさんの踊りに合わせてみんな踊り出すという場面も。 >続きを読む |
在日として、福岡で生活する人たち。 どんな思いで、生きてきたのか、それはどんな人生だったのか。 ヨン)全羅南道霊岩出身です。高校時代に演劇を始めました。もっと勉強したくて卒業後ソウルに行きました。ある劇場に所属して演劇を始め、その中でダンスに興味を持ち、ダンスをすることになりました。日本とは2004年から交流を始めました。昨年末に福岡に関連した作品を創りませんか?という話をいただいたので、全く知らない福岡の街を勉強する気持ちでこの企画に参加することになり、うれしく思っています。実際、福岡に来てみたら、観光以外に知らなかったし、地域のことも知らなかったので、福岡で作品を創る前に、いろんな方と出会うことで知らないことを勉強しようと財団の紹介で日本に住んでいる在日の方に会いたくて訪ねてきました。こういう機会でみなさんと出会えてうれしく思っています。 Aさん)私は山口県出身です。下関です。福岡は我々の同胞たちが多く住んでいます。全国でいえば福岡が同胞が多い地域です。
Dさん)戦争の随分前、1920年頃に父が稼ぐために日本に来て、母が追って来たんです。そこで生まれたのが私たちです。私は飯塚の炭鉱町で生まれて、86歳になります。それで2世です。在日の中で私の年齢で2世というとおかしいと言われますが、強制連行のずっと前に来たからですね。だから私と同じ年齢だとほとんど一世ですが、私は二世です。
Cさん)口減らしの為に娘たちを早く嫁がせたかったということもあった時代です。
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日 時:2012年5月9日(水) 場 所:筥崎宮・箱崎漁港、アジアンハイウェイ式典、玄海島
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日 時:2012年5月8日(火) 場 所:博多港・福岡市博物館
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