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日  時:2013年3月15日(金)
場  所:福岡空港国際線ターミナル
江田英治さん(福岡空港ビルディング株式会社 地域・広報部 地域・広報課)

ディルズ和美さん(福岡空港ビルディング株式会社 事業部 業務課)

人やモノが行き交うゲートである空港。そこで働く人々が日々どのようなことを感じているのか知りたい!ということで、福岡空港ビルディング株式会社のお二人にお話を伺いました。このプロジェクトのために2カ月に一度のペースで韓国と福岡を行き来したヨンドゥさん、福岡空港は「まるで自分の庭の一部のような感覚」なのだそうです。
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福岡空港の国際線の出国者は、1日約4000人。
年々増加し、これからもさらに増えていく。

ヨン)こちらで5年間働いていらっしゃるそうですが、お客様の数の増減など空港での変化の流れを教えていただけますか?

 

ディルズさん)国際線というのは、世界的な事件があった場合、例えばSARSやインフルエンザやリーマンショックなどもそうですが、何か大きな事件があるとお客様が突然多くなったり少なくなったりします。そういうことが大体年に一度くらいあります。近いもので言えば、一昨年の東日本大震災ですね、本当に一時期ですけれど、少なくなった時期がありました。その後、順調に回復してきていましたが、昨年の情勢が影響して中国便のお客様が若干少なくなっています。

 

ヨン)外国へ出られる日本の方の増減はどのように変化していますか?

 

ディルズさん)この何年間の中でも今年は旅客数が増えているんです。LCC(格安航空)が福岡はどんどん増えていますので、お客様全体がかなり増えている状態です。韓国への路線も増えています。

 

江田さん)昨年出国した日本人が約92万人です。つまり、往復にすると180万人が国際線を利用していています。また、約56万人の外国の方が日本に入国しています。

 

ヨン)それだと1日どれくらいの方が利用されているのですか?

 

江田さん)1日ですと平均で約4000人出国して、4000人入国していますね。

 

ヨン)すごい数ですね。空港というのは沢山の方が利用されると思いますが、例えば韓国のお客様と何かトラブルなどがあったことはありますか?また、国によってトラブルの種類が違うのでは?と思うのですが、何かあれば教えていただけますか?

 

ディルズさん)韓国のお客様はこの数年、若い方がすごく増えてきています。若い世代のファミリーや学生さんなどがLCCなどを利用して日本に来られています。ブランド品などの買い物は韓国でされているようで、空港ではお菓子などを買われることが多いですね。特にトラブルがあるということはありません。逆に私が韓国に行った時に思ったのは、中国のお客様が多いと感じました。中国のお客様は団体で行動されることが多いので、その勢いというか日本人とはまた違ったパワーを感じましたね(笑)。

 

住宅地に近い空港。
地の利は良いが、利用時間の制限や騒音の問題も。

ヨン)福岡空港は市内からとても近くて便利ですが、良い点と悪い点を教えていただけますか?

 

ディルズさん)まず、福岡のいいところは、あまり都会過ぎないけど、それなりに都会だとよく言われていますね。東京にあるものは、ほとんどのものは揃いますし、街がコンパクトなので買い物がしやすいという点と、海や山や温泉などの自然がすぐに行けるところにあるのが、福岡で暮らしている人からするとすごく便利です。

 

ヨン)逆に近すぎて不便さを感じたり、住民たちから空港に問題を提示されたりすることはないですか?

 

江田さん)街にすごく近い空港なので、朝7時から夜10時までしか空港は使えないんです。本来空港は24時間運用できるのですが、騒音の問題があるので福岡空港は利用時間に制限があります。また、できるだけ住宅地の上空を飛行機が飛ばないように北側、つまり海側から飛行機が入ってくるような航路になっています。それでもうるさいと言われることもありますし、風向きによってはぐるっと回って山側から空港へ入ってくることもあります。そういう時はやはり騒音の問題になりますね。

 

ヨン)福岡空港はいつできたのですか?

 

江田さん)空港ができたのは昭和20年(1945年)ですね。元々は日本軍が戦争のために作った空港でしたが、敗戦後アメリカ軍が使い始めました。1972年に民間の空港になりましたが、今でもアメリカ軍の施設が空港内にあります。今の国際線がこちらにできたのが平成11年ですので、14年前ですね。以前は国内線と同じ並びのビルに国際線もありました。

 

ヨン)福岡から初めて外国に飛行機が飛び立ったのはいつですか?また、外国から初めて福岡に入ってきた飛行機はどこの国からですか?

 

江田さん)昭和40年(1965年)、福岡と釜山の間の飛行機が初めての定期便ですね。

 

ヨン)おぉ、釜山ですか。その理由は近いからですか?

 

ディルズさん)おそらく距離が近いことと、日本に在日コリアンの方がたくさんいらっしゃったことが理由ではないかと思います。免税店にも在日コリアンの方がたくさん働いていらっしゃいます。留学生もいらっしゃいますし。韓国の方はとても身近ですよね。

 

ヨン)昨年から福岡と韓国を行き来していますが、すごく近くいので、韓国の人にもぜひ福岡の公演を観に来て欲しいと声を掛けています。そしたら、すでに多くの人が福岡に来たことがあると言っていました。何度も福岡に来ている人もいます。

ディルズさん)買い物も、特別なものというより、ご家族で来られて日用品などの普段に使われるものを買って行かれているようです。ドラッグストアなどによく行かれるという話は聞きますね。また、どのお店の何が美味しいかを韓国の方はご存じのようです。

福岡に来る外国人の半数は韓国人。
福岡から出ていく外国も圧倒的に韓国が多い。

ヨン)たくさんの方々が空港を利用されていると思いますが、シーズンや国によってアピールするところが違うと思いますが、どういう戦略で福岡空港はアプローチされていますか?

 

ディルズさん)まず免税店の中ですと、国によって興味があるものが違います。例えば韓国の方に今いちばん人気なのは、お菓子なんです。中でも一番人気があるのは「ひよこ」です。国によって人気のあるお菓子はそれぞれ違いますね。なので、福岡空港だけでしか販売しない「ひよこ」を作ってもらったりしているんです。また、インターネットを通じて韓国の旅行代理店で、福岡空港のクーポンを配っていただいたりしています。それは中国に対しても同じようにしています。特に韓国の方はインターネットやスマートフォンをよく利用されているので、今後はそちらの方からのPRを考えようと思っています。

 

ヨン)利用客の多い国を教えていただけますか?
 
江田さん)上位3位でいいますと、韓国の方が一番多いですね。外国人の半分は韓国の方です。次が台湾ですね。17%くらい、中国が15%。韓国の方が群を抜いて多いですね。お客様が増えつつあるのはタイですね。どちらかというと、日本から出ていく人のほうが多くて、日本に来ていただく方のほうが少ないですね。

 

ヨン)それでは福岡から一番多く行かれる外国はどこですか?

 

ディルズさん)それも韓国ですね。今では日帰りで行かれる方も多くなっています。

 

ヨン)韓国に人気のお菓子は「ひよこ」だと伺いましたが他の国の方々にはどういうものが人気ですか?

 

ディルズさん)中国の方に人気なのは「白い恋人」という北海道のお菓子です。福岡のお菓子ではないですが空港には置いているんです。南方の国の方に人気のお菓子は、これも北海道のお菓子ですが、「ロイズ」というチョコレート。特にタイやシンガポールの方には「ロイズ」のお菓子が人気です。

 

ヨン)おもしろいですね。なぜそれらが人気なのでしょう。

 

ディルズさん)「ひよこ」は福岡のお菓子なので人気なのは私たちにとってはとてもうれしいことです。他の空港で韓国の方が何を買っているかというのは調べてみないとわからないですが…。“福岡だからこれを買いたい”というお客様よりも、“日本なので日本のお菓子を買いたい”という方が増えていると思います。ちなみに、台湾の方に人気なのは「東京バナナ」です。本当だったら「東京バナナ」は東京でしか販売しておらず、福岡市内のどこにも売っていないのですが、空港の免税店だからこそ販売している商品なんですよ。

 

滑走路が一本の空港では、発着便の多さは日本一。
国内、国際線を合わせると年間で約1700万人が利用。

ヨン)外国から福岡の国際空港にどれくらいの飛行機が到着していますか?

 

江田さん)1週間で200便くらい到着します。1日だと27~8便ですね。

 

ヨン)国内線で他の都市から福岡へ到着するのはどれくらいですか?

 

江田さん)1日180便くらいですね。180便便到着して180便出航しています。ピーク時には3分に1回発着か到着があります。

ヨン)それは日本国内の空港では多い方ですか?

 

江田さん)滑走路が一本では日本一です。ただ羽田や他にも滑走路が何本もあるところを合わせると、国内線ですと福岡は5番目です。国際線も5番目くらいですね。

 

ヨン)思った以上に多いですね!

 

江田さん)今年はさらに増えています。国際線の利用客が一昨年250万人だったのが、昨年は300万人になっています。国内線も増えていますので、1700万人くらいの利用客の数になると思います。そうすると国内線、国際線を合わせて日本で3番目か4番目くらいになると思います。

 

ヨン)福岡が何か特別なものを持っているから多くの方が来られるのではないかと思いますが、どういう魅力があるからだと思いますか?

 

江田さん)国内の方は、観光と言うよりもビジネスの関係が多いのだと思います。福岡に入って九州各地に行かれる、ということが多いようです。福岡へは飛行機の便も多いですから便利なのでしょうね。もっと地方に行くと飛行機の便が少なかったりするので。

 

ヨン)なるほど。少しおかしな質問かもしれませんが…もし福岡空港から“最後の便”が出発するとなった場合、どういうものを持っていかれますか?逆に、外国から帰ってくる時に“最後の便”で何か日本に持ってくることが出来るとしたら、どこの国から何を持ってきたいと思いますか?

 

江田さん)そうですね…日本から持って行くものは、私は福岡だったら「あまおう」という苺があるんですが、とても美味しくてみんなに食べてほしいのでそれを持って行きたいですね。そういう美味しい食べ物を持って行きたいですね。外国から持ってくるものは…私だったら「韓国海苔」を持ってきたいですね。大好きなので(笑)。

 

ディルズさん)難しいですね(笑)。精神的なものとすれば、人と接することが好きな国民性が日本にも韓国にもあると思いますが、そういうホスピタリティーというのが日本はすごく高いと思いますので、それですね。物だったらお米ですね。特に欧米に行くと美味しいお米が無いので。持ってくるものは…どこの国も一緒かもしれないですが、時代によって教育の仕方が変わってきていると思うのですが、今はグローバルなものを求められているのに、日本の子供や若者はそんな風にはなかなか育っていないのかなと感じるので、そういうグローバルスタンダードというものを持ってきたいですね。

空港は人と人、国と国の交流がなされる、
福岡にはなくてはならない場所。

ヨン)空港で働いていらっしゃいますので、たくさんの外国人と接していると思います。例えば、ニュースなどで日本や外国でデモの様子などを見たとき、どういう気持ちになりますか?

 

江田さん)早く解決して欲しいなと思いますね。それは話し合わないと解決しないと思いますし、歴史的な背景というのは、どれが本当でどれが事実ではないか、というのは、いつの時点でそれを見るかで変わってくるので、過去のこともそうですが、これからのことを考えながら話し合うべきではないかと思います。

 

ディルズさん)私もたくさんの方と接触することが大事だと思っています。何度も会っていたとしても誤解が生じることもありますが、たくさん会っていく内に国境を越えてお互いが理解できる繋がりができるんじゃないかと思います。

 

ヨン)空港というのは外から何かが入ってくる、そして何かが出て行く場所ですよね。そういう場所だからこその良いところと悪いところは何だと思いますか?

 

江田さん)空港で働いている私としては、いろんな国の人を身近に感じられるのですごくうれしいんですね。到着した方をたまにお出迎えをすることがあるのですが、心が通じ合うようなことがあって、こちらもうれしいし相手にも喜んでもらえる。また帰られる方たち、日本から出て行かれる方たちを見ていると、こちらも楽しい気持ちになります。そういう気持ちの交流がなされるという意味でも、空港は福岡になくてはならない場所だと思います。

 

ディルズさん)私も同じようなことを感じています。困ることや悪いところはあまり感じていません。国際交流という意味では良いところの方が多いです。福岡に来ていただく外国の方にとって、初めて見る日本、最後に見る日本が福岡である限りは、私たちはいい印象を持っていただきたいと思います。たぶん、空港のどの場所で働いている職員もそういう気持ちでいてくれていると私は思っています。あとは、空港だけではなく、福岡市内のいろんなお店や観光地の人たちも、外国の人たちに接する機会が昔より増えていると思うので、そういった意味では様々な国際情勢で国と国との問題というのはその時々でいろいろありますけど、人と人の間にはそういう壁はないのかなと。ですので、小さいところの交流からやっていければと思っています。

 

ヨン)空港で働かなかったらどういう仕事をされていたと思いますか?また、日々こういうことをがんばっています!というようなことがあれば教えてください。

 

ディルズさん)私は元々人に関わる仕事がしたいと思っていましたし、海外の人と関わる仕事がしたかったので、この仕事をしていなかったら何をしていたかはわからないですが、漠然とそういう仕事がしたいと思っていました。今いる会社にはいろんなセクションがありますが、以前はシステムのセクションにいたんですね。そういうところだとあまり人とは関わらないような感じはするんですけど、そういうセクションにいたとしても、色んな人がいますし、例えば何かトラブルがあったとしても、人と接している限りはあまりそれを苦労とは思わないんです。結構わがままを言われるお客様もいらっしゃいますけど(笑)。それを大変だと思うことはあまりないですね。

 

江田さん)私はこの仕事じゃなかったとしても、福岡で仕事をしていると思います。福岡が大好きですし、福岡にずっと住んでいたいと思っていたので、福岡に本社がある会社や福岡のためになるような仕事をきっとしていたと思います。

 

ヨン)なぜ福岡が好きですか?

 

江田さん)お祭りが楽しいですし、食べ物も美味しい、そして人がとてもおおらかというか人情味がある。子どもたちもこの環境で育てたいと思いますね。それらがあるからこそ福岡だったのだと思います。がんばっていることは…福岡はスポーツもすごく盛んな街なのですが、私は少年ラグビーチームのコーチをしているんですね。18人生徒がいますが、出来る子がいたり、出来ない子がいたり。でもみんなにラグビーを好きになってもらうには怒ってばかりでもダメだし、褒めてあげたりもして、出来なかったことが出来るようになっていくのを見ていくのが楽しみでもあるんです。なかなか自分の時間が取れなくなったりもしますけど、そのコーチという仕事は楽しいですね。

 

ヨン)それは素晴らしいことですね。今日はお忙しい中、長い時間お話を聞かせていただいて本当にありがとうございました。


テキスト:筒井亜耶

 


 

 

日  時:2013年3月15日(金)
場  所:福岡中央郵便局
小屋迫順一さん(第一営業部 部長)
吉村由美子さん(窓口業務担当)

送り主の思いを乗せて、海を越え、街を行き交い、誰かのもとに届けられる手紙や荷物の数々。インターネットが普及した今の時代も、郵便はなくてはならないものです。福岡で中心的な役割を担っている郵便局を訪ねたい!というヨンさんからのリクエストで福岡中央郵便局を訪問し、お話を伺いました。
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インターネットの普及があるからこそ、
改めて手紙の良さを感じられる。

ヨン)今ではネットなどを通じて連絡を取り合う人が増えてきて、以前よりも郵便物が減っているのではないかと思いますが、ネットが発達する前と後では、郵便物の数はどのように変化してきたのでしょう?

 

吉村さん)確かにインターネットは早くて便利ですので郵便物の数も減っていますね。日頃の簡単なやり取りはインターネットやテレビ電話を使われているのかもしれません。が、たとえば海外にお孫さんが住んでいらっしゃるおばあちゃんが来られて、お孫さんのお誕生日などの特別な時に手書きのメッセージが入った心のこもったカードを出されたり、クリスマスの時期には手書きのカードに日本らしい切手を貼って渡されたり。そういう心のこもったお手紙は、受け取られた方もうれしいと思うので、数は減ってきているかもしれませんが、インターネットが発達している分、手紙の良さというのも改めて見直されているのかなと思います。

 

ヨン)韓国には兵役があって、その時は友達や家族に会えないので手紙を送ったりもらったりします。そういう時の手紙は、やはりうれしいですね。郵便局や手紙の役割はとても大切だと思います。福岡から外国へ送られる郵便物の数と、海外から福岡へ送られる郵便物の数では、どれくらいの差がありますか?

 

小屋迫さん)圧倒的に到着の方が多いですね。特に海外から送られる郵便はビジネス用が多いです。福岡からはEMSという荷物を運ぶ物も含めて中国、韓国宛ての郵便が多いです。ですから、私たちもそのサービスを強化していますね。

 

ヨン)たとえば福岡に住んでいる韓国や中国の方が自分の国に荷物を送る時、どういう物を送られることが多いですか?

 

吉村さん)衣類や日用雑貨などが多いですね。あとは福岡のお菓子などの食料も多いです。

 

ヨン)私達が小さい頃、韓国では手紙を書いてその下に配達される方に「ありがとうございます」「感謝します」という言葉を書いたりしていました。郵便局で働いていて郵便局が在る意味を感じるのはどういう時ですか?

 

吉村さん)私は窓口にいますので、お客様が出しに来られる郵便物を引き受けるのが仕事です。窓口にいて一番感じることは、例えば韓国に住んでいる家族へ福岡のお菓子を食べさせてあげたいとか、実際に私の仕事は荷物を引き受けるだけなのですが、そういう心のこもった贈り物をされる時に、自分が少しでも関われるということはうれしいですね。
今いちばん感じているのは、韓国語や中国語が話せるといいなということです。私は郵便局に勤務して10年ほどですが、働き始めた頃よりもその必要性を日々感じています。お客様と対話しながらも、違う国の方の生活スタイルや話を聞いたりすると、勉強にもなりますし、楽しく感じます。そういった部分も含めて、働きがいのある職場ですね。小さいところに留まらず、いろんな所を見ることができる。お客様との会話がすごく楽しいと感じています。

 

ヨン)反対に仕事をされていて大変なことはありませんか?例えば外国の方の言葉がわからなくてやりとりが大変だったとか。外国の人には事前に郵便局はこういうところだと理解した上で来てほしいと思うことはありませんか。

 

吉村さん)言葉は確かに難しい問題ですね。私は韓国語や中国語はよくわかりませんので、来られた方も日本語があまりわからない場合は、英語でのやり取りになるのですが、英語もお互いに母国語ではないので、なかなか伝わりづらい時があります。でも、できる限り努力して、どうしても解らない場合は、社内に中国語や韓国語が堪能な社員がいますので、助けてもらったりしています。
解らないことがあれば、どんな小さな事でも聞いてほしいですね。私達もできる限りのことはやりたいと思っています。疑問があれば直接私達に言っていただければと。

 

ヨン)海外から送られてくる郵便物の数はどれくらいですか?

 

小屋迫さん)海外から到着した荷物や郵便物は、国内に到着した時点で、配達までの経路が国内の郵便物と同じになるんです。なので、実は詳しくはわからないんです。 

 

ヨン)では海外に出す量はどれくらいですか?

 

小屋迫さん)福岡中央郵便局の窓口で預かるのは、手紙や封書は1日で15~6通だと思います。EMSなどの荷物が30通くらいですね。ただ、それは窓口で直接受け取る数で、それとは別に直接ポストに入れられるものもあります。ポストに入れられる数の方が多いと思います。

 

ヨン)思ったより少ないですね。郵便局の方のお仕事も減ってきているのではないかと心配ですが…。

 

小屋迫さん)インターネットの普及などもあって、確かに郵便物の数も減っていますし、作業自体の数も多少は減ってはいます。ですので、時代や状況に応じた対応をしていかなくてはと思っています。

 

ヨン)人がたくさん来れば仕事も増えますね!

 

小屋迫さん)そうですね(笑)。

大切な人へ贈り物や手紙を届ける、
その間に少しでも関われるうれしさがある。

ヨン)これからたくさん手紙を送るようにします(笑)。郵便局は昔からあったものなので考えにくいことかもしれませんが、もし郵便局が世の中からなくなったとしたらどんなことが起きると思われますか?人々はどういう風に自分の気持ちを誰かに伝え、受け取るでしょうか。

 

吉村さん)あまり考えたことはありませんでした…郵便局はあって当たり前のような存在ですからね。生まれた時から必ず近所にあるものでしたから、もしなくなるとすると不便ですよね。お中元やお歳暮など日本人特有の贈り物も困るでしょうし、手紙などの自筆のものを送ることが出来なくなると遠くにいる家族とも手紙のやりとりもできなくなりますし。寂しくなるんじゃないかと思いますね。

 

ヨン)メールよりも手書きで書いた手紙を受け取った方が喜びはとても大きいと思うんです。郵便局がなかったら誰かが送った物を受け取ることはできないし、私が送った物を相手に届けることもできない。そうすると私と相手を繋いでいる糸が切れてしまうようで、寂しくなると思います。そんな風になると思うと、人はどんなことを思うんでしょうね?

 

吉村さん)ちょうど今のように春の時期というのは、新しく学校に入ったり、社会人になったりする季節です。そんな孫たちにおじいちゃんやおばあちゃんが頑張ったねと贈り物と手紙を添えて送るとか、そういう、人との繋がりを感じる時期なんですね。そういうことって大人になっても思い出しますよね。なので、そういうものがなくなると寂しいかなと思います。手書きだとその人の味がありますよね、個性というか。その地方の方言などもありますし。

 

小屋迫さん)歴史的なことを言いますと、郵便事業が始まって150年経っているんですが、全国津々浦々にネットワークを維持しなさいというのが、法律で義務づけられているんですよ。インフラとして郵便局をなくしちゃいけないというのが義務づけられているわけです。そのために頑張って郵便の利用を増やして、ネットワークが維持できるように経営上も色々考えてやっているというわけです。

 

ヨン)郵便局をよく利用するのですが、郵便局で人と人がどういう風に出会えるか、人と国がどういう風に出会えるかということをよく考えます。郵便局にはそういう人と人、人と国を繋げてくれる役割があるのだなと。ところで、郵便局ではどういう方法を使って、これから郵便物を増やして頂こうと思っていらっしゃいますか?また、一般の方々が知らない、私たちはこういうことまで頑張っているんだと、利用する人に解ってほしいということがあれば聞きたいのですが。

 

小屋迫さん)ご利用いただくためには、お客様に満足していただけるサービスをいかに良質に提供できるかということが一番の基本だと思っています。お約束した日数でスピーディーに確実に届ける。それが一番大事なこと。それに尽きると思います。そうして郵便の利便性をまずは解っていただいて、その上で手紙っていいなと感じていただける努力をこれまでもしてきましたし、これからも続けていくということだと思っています。

 

吉村さん)私は窓口でお客様と直接応対できるところにいますので、人と人の最初の繋がりを大事に、と思っています。窓口で対応する人を気に入ってもらえると、また郵便局に行ってみようと思っていただける。それは“確実にお届けする”という信頼があってこその、プラスアルファの部分になるとは思うのですが、人間として、人として、コミュニケーションが取れるような窓口作りというか、ただ手紙や郵便物を受け取るだけではなく、さらに人としても愛していただけるような繋がりも大切にしていきたいと思います。 

テキスト:筒井亜耶

 


 

 

日  時:2013年3月11日(月)
場  所:イタリア会館・福岡
ドリアーノ・スリスさん

福岡市中央区にあるイタリア会館・福岡におじゃまして、館長のドリアーノさんにお話しを伺いました。 1974年に来日して39年目のドリアーノさん。「日本人じゃないからこそ気付くこと、見えること、感じることを大先輩にお聞きしたい!」ということで、ヨンドゥさんから数々の質問が投げかけられました。 長年の経験をもとに語ってくださったドリアーノさんの言葉はどれも興味深く、ヨンドゥさん自身もこのインタビューにより作品の全体像が少し見えてきたようです。
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文化の違うもの同士が一緒に生活をする、
違いがプラスになるからこそ楽しい。


ヨン)お時間を作っていただきありがとうございます。去年から福岡と韓国を行き来しながらいろんなことを感じているのですが、その中でも「福岡や日本という国はどういう場所なのか」ということとを考えていて、日本人ではない方にそのことについてお話をお伺いしたかったのです。
私は韓国人でありながら、韓国を離れないと自分の国のことがよく見えなくなることがあります。離れてみて韓国という国を見た時にいろんなことが見えてきたのですが、例えば韓国にいる外国人の方に話を聞くと、自分が見えていなかったことを教えてくれることもあります。そういう点でも、ドリアーノさんに、長く日本に住みながら感じたことを教えていただきたいと思っています。ドリアーノさんが日本に来て38年経っているそうですね。イタリアには家族や友人がたくさんいらっしゃると思いますが、たまに家族や友人、自分の国が恋しくなることはありませんか?

 

ドリアーノ)今でもイタリアと日本を行き来していますから、そこまでは感じていないですね。一度、4年間くらい帰らなかった時は、友人や家族に会いたいと思いましたが、国を恋しいという感じはありませんでした。国というよりは友人や自分の家族に会いたいと思いますが、今の時代はスカイプもあるし昔ほど遠くは感じないので、そこまで恋しく感じることはないですね。

 

ヨン)ドリアーノさんは筑前琵琶という楽器に出会ってから人生が変わっていったと伺っていますが、それはイタリアで出会ったものですか?

 

ドリアーノ)日本に来てからですね。当時は日本に長く居るとは思っていなかったですね。というより、そこまで考えていなかったんです。生活することは簡単ではないなと思っていましたし、住んでも1年くらいかなと。

 

ヨン)日本に来るきっかけはどんなことだったのですか?

 

ドリアーノ)イタリアで日本人の女性と結婚して、2年間一緒に住んでから日本に来ました。ちょうど私の仕事も空いている時期だったので。

 

ヨン)奥様と出会ったきっかけは何だったのですか?

 

ドリアーノ)僕はイタリアで人形劇をやっていたんです。ルネサンス時期など古い家具を修復している友人の店があって、そこで時々アルバイトをしたりして手伝いをしていたんです。その友人が僕がやっている人形劇が好きで、劇に使う人形の手の部分を店に飾ってくれていたんです。それを気に入ってくれた日本人の女性と出会いました。それが初めての出会いですね。

 

ヨン)結婚することになって、当時、外国人と結婚することにまわりはどのような反応でしたか?

 

ドリアーノ)私の家族は特別な反応はなかったですね。

 

ヨン)同じ国の人どうしでも結婚すると大変なことがたくさんあると思います。文化の違う二人が出会って一緒に生活をしていくことはもっと大変だと思いますが、お互いの文化が違うことで生じた誤解やハプニングがあれば教えていただけますか?

 

ドリアーノ)その時々、その人それぞれで、みんな違うと思うんですけど…もちろん私達にも違いはありましたが、文化が違うことが大きなプラスになっていたと思います。日々、お互いの違いを見つけたり知ったりすることがとても新鮮でしたね。よく結婚したら毎日同じで飽きていくのではないかと言われますが、私達にはそれはなかったですね。


異色だった日本のイメージが、
一人の日本女性との出会いで一転。

 

ヨン)文化が違うことを楽しんでいくことは大切なことですね。イタリアにいらっしゃった時、奥様と出会う以前、日本やアジアに対するイメージがあったと思います。反対に奥様にもイタリアに行く前に持っていたイタリアのイメージがあったと思います。お互いに出会い、結婚してそのイメージはどのように変化していきましたか?また日本に住んでみて変わっていったイメージがあれば教えて下さい。

 

ドリアーノ)当時のヨーロッパ、特にイタリアのメディアで紹介されている日本のイメージは、あまり良くなかったですね。テレビや新聞を読んだりするだけでは、日本に行ってみたいとは思えませんでした。当時は、日本人が仕事の前に会社の歌を歌ったりしていて、なんというか、軍事的というのでしょうか、そういうイメージが強かったです。あとは東京の地下鉄の満員電車の様子など、日本というとワンパターンでそういうイメージしか紹介されていなかったんです。そういう時代だったんですね。だから日本人はみんな仕事ばかりしている印象だったのですが、彼女に出会った時にはそんなイメージは全く無かったので、逆に興味が湧いてきたんです。それで日本に来てみたら、もっと日本のことを好きになりましたね。

 

ヨン)これから日本に来たいと思っている人や住んでみたいと思っている人に、日本で生活する時のアドバイスがありますか?

 

ドリアーノ)難しいですね(笑)。西洋人は自分たちが世界の中心だと思っているので(笑)、そういう部分を抑えて、日本の文化をいい意味でも悪い意味でも受け入れることですね。西洋人だけではないとは思いますが、自分の価値観の物差しで全てを計ろうとせず受け入れることを意識して欲しいですね。
もうひとつは、自分の国にいる時に、自分の国のことが見えなくなるというのは、家族や友人、仕事などの環境があって、それら全てが“自分の国”になっているんですね。だから外国へ行った時に全てを外側から見てしまうんです。自分の国のことも全てを知らないのに、外国の事は外側から見てしまう。だからアンバランスな見方をしてしまうんだと思います。だから、なぜ違うのかということを自分で考えないといけないですね。先入観などをなくして純粋に見れば、矛盾も含めて自分の中に新しいものが入ってくる、それを考える。逆に別の国にいれば、自分の国のことが住んでいた時よりも、もっと見えてくるんです。

 

ヨン)反対に日本や福岡に来た外国人に対して、こんな風に対応してあげたらいいというアドバイスがあれば聞かせて下さい。

 

ドリアーノ)それも難しいですね(笑)。日本の場合は、言葉で“外人”という単語があります。外人という言葉は、日本人以外の人のことを指します。だからイタリアにいるイタリア人も、アメリカにいるアメリカ人も“外人”です。でもイタリアの場合は、イタリアに来ている外国の人のことは“外人”と呼びますが、日本にいる日本人や、アメリカにいるアメリカ人のことを“外人”とは言いません。なので、日本人と話をするときに出てくる“外人”という意味がピンとこないことがありました。日本人以外の全世界の人たちのことを指してますからね。それは不思議な感じがしますね(笑)。でもよく聞くと日本人が“外人”という言葉を使う時、それは西洋人をイメージしていますね。たとえば、中国の人は“中国人”ですし。同じ外人の中でも、カテゴリー分けというか階級分けされているように思います。だから出来るだけ外国の人に対してフラットな気持ちで接して欲しいとは思います(笑)。

 

ヨン)別の質問ですが、日本の食べ物では何が好きですか?

 

ドリアーノ)好きなものはたくさんありますが…最初から嫌いな食べ物は納豆ですね。ねばねばするものは苦手ですね。今はイタリアにも日本料理の店がたくさんありますが、昔はあまりなかったので食文化をきちんと知ることは出来なかったんです。だから日本に来て半年くらいは、大変でしたね。

 

ヨン)特に一番好きなものは何ですか?

 

ドリアーノ)一番好きなのは寿司ですね。でもどんな寿司でも好きなわけではなくて、決まったお店の寿司が好きです(笑)。美味しくない寿司を食べるくらいなら焼そばの方がいいですね(笑)。

 

ただイタリア文化を伝えるのではない、
自分が素晴らしいと思うイタリアの文化を日本に。

 

ヨン)人形劇をされていたというお話だったので、言語が持つ力や重要さをご存知だとは思いますが、今ではイタリアに住んでいた期間よりも日本で暮らしている時間が長いですよね?言葉の不自由さはもうないとは思いますが、日本に来た当時、自分の思っていることや気持ちをうまく表現できなくて大変だったことを教えていただけますか?

 

ドリアーノ)日本に来た時は「さよなら」という言葉しか知りませんでした。だから最初は大変でしたね。日本に来て半年ほど経った時に筑前琵琶に出会って、琵琶職人の弟子になって一日中、その先生の日本語と言うよりは博多弁を毎日聞いて、少しずつ覚えたのですが、一人で漢字を勉強したりしていました。日本語の学校には行っていないですね。本当はもともと自分がやっていた演劇や人形劇をやりたかったですけど、無理だと思いました。言葉が操れないとそれらは全くできないですからね。だから言葉を覚えるまでが大変だとは思います。なので、今、ようやく日本人と一緒に演劇の翻訳をやったりしていますね。僕は翻訳は二人でやらないといけないと思っています。どちらにも母国語がないと、本当の意味での翻訳はできないです。

 

ヨン)こういうセンター(イタリア会館)を始めようと思ったきっかけを教えていただけますか?この相互の国の文化を伝えるセンターをやっていて一番うれしかったこと、一番大変だったことを聞かせてください。

 

ドリアーノ)僕は1974年に日本に来ました。当時はイタリアというと、日本のみなさんのイメージの大部分は“スパゲッティ”でした。ミケランジェロでもなく、レオナルド・ダ・ビンチでもなくて(笑)。そのストレスは大きかったですね。そのスパゲッティもイタリアのそれとは全く違うものでしたし。ナポリタンとかね(笑)。
先ほども話しましたが、外国に住んでいる時間が長いほど、自分の国のことがはっきり見えてくるんですね。いいところも悪いところも。自分の国にいるとその国の文化に対して、慢性化してしまうところがありますが、外に出てみるとよく見える。イタリアにいた時には、イタリアの文化に対する興味はさほどなかったように思います。でもその良さもきちんと解ってきて、イタリアの文化を日本に紹介したいと思うようになりました。加えて、イタリア語を教えたいとも思い、イタリア語教室も始めました。
始めた当時はイタリア文化センターという名前でした。目的はイタリアの文化を紹介し、イタリア語教室をやることでした。日本人が知らない、私の好きなイタリアの文化を紹介しようと思いました。何でもいいわけではなかったんです。私が好きなものを紹介したかった。だから最初はイタリアの映画を紹介しました。昔は日本にもイタリア映画は入ってきていたのですが、どんどん数が少なくなってきていました。1984年には全国で一番大きなイタリア映画祭をやったんです。そこで7000人もの人が来てくれて、それは本当にうれしかったですね。このセンターはイタリア大使館などは関係なく、100%個人出資のセンターなのです。イタリア語を教えながら、その利益で色んなイベントを開催したりしました。外部からは絶対このセンターはうまくいかないと言われたこともありましたが(笑)。それでも、イベントや教室で利益を出しながら、イタリアの音楽家を呼んでコンサートや、イタリアの美術展などを開催したりして、少しずつイタリアの文化を日本に紹介しています。

 

ヨン)ドリアーノさんはイタリアのどちらの地方の出身ですか?

 

ドリアーノ)生まれたのはサルデーニャという小さな島ですが、子供の頃から育ったのはローマです。

 

ヨン)イタリアにいらっしゃる時は人形劇が専門だったのですか?

 

ドリアーノ)元々はクラシックギターで音楽をやっていました。7年間の学校だったのですが、5年目の時に人形劇をやっているイタリアで有名な劇団にいた友人が病気になって、代わりに行ってくれないかと言われて手伝いに行ったことが始まりでした。そこから僕の人生が変わりましたね。当時は何も知らず手伝いに行き、初めて人形を操ったのですが、それを褒められて(笑)。以来、音楽をやめて、その劇団に入りました。人形劇は子供の劇ではなく、大人向けの劇ですね。(ウラジーミル・)マヤコフスキーとか(サミュエル・)ベケットとかの作品を人形劇にしたものです。そこに2年くらい在籍して、その後自分の人形劇団を作りました。人形劇の劇団です。それでヨーロッパ中で公演をしていました。

ヨン)最近、また人形劇の世界に戻りたいという気持ちはありますか?

 

ドリアーノ)ないですね(笑)。

 

ヨン)それは人形劇に対して興味がなくなったのですか?それとも長い間やっていないので諦めてしまったのでしょうか?

 

ドリアーノ)そのどちらでもないです。私たちがやっていた人形劇は、政治モチーフに社会を風刺したものが多かったのです。それは自分の国では共感を得られますが日本では無理ですね。もちろん日本ではそういうことはできないですし、第一、もうそういうことに興味がなくなりましたね。

 

ヨン)今、国籍はどちらにありますか?

 

ドリアーノ)イタリアです。永住権を取得しているだけです。

 

ヨン)例えば国籍を変えたいと思った事はありますか?

 

ドリアーノ)昔は永住権を取得することも大変だったのです。私は琵琶を作っていて、後継者が私一人になってしまった、だからもらえたんですね。以前は永住権を取るよりも永く日本に住むのなら帰化して国籍を取った方がいいと言われましたが、それはしたくなかったですね。

 

ヨン)現在、筑前琵琶作りは、弟子たちに教えられているのですか?

 

ドリアーノ)琵琶を作ったり修復したりはしていますけど、教えていないですね。今は新しい琵琶を作るよりも、昔のものを修復する方が好きですね。修復は、昔のままに修復しないといけないので、ごまかしが効かないんです。昔は琵琶も職人たちが競って作っていましたので、本当に素晴らしい美術品のような楽器がたくさんありました。例えば琵琶の糸巻きがあるのですが、その部品ひとつが素晴らしい美術品なのです。それが壊れた時、昔と同じにはできないので、それを外して別のものを使って新たに作る。それは“修理”ですね。でも私がやっている“修復”というのは、その部品を何ヶ月かかっても元通りにすることなんです。今では作り方も解らなくなっているものを、試行錯誤しながら元通りにする。その作業が楽しくて仕方ないですね。

 

国籍は関係なく、人間同士の付き合いで大切なのは、
相手の目を見て話をすること。

 

ヨン)私は日本を行き来して10年くらいになりますが、いつも思っているのは、どうしたら先入観無しで人対人で出会えるかということなんです。最初は「国などは関係なく、人と人が出会えたらいい」と思っていたのですが、最近は「日本の人、イタリアの人と認めた上で出会った方が、人と人がスムーズに出会える環境ができるのではないか」と意識し始めました。そこで、母国ではない国で長い間生活をしているドリアーノさんにお聞きしたいのですが、人がお互いの情報なしで、また違う言語の中でどういう風にしたらうまくコミュニケーションがとれると思われますか?

 

ドリアーノ)僕も日本に来たばかりの頃、同じようなことを考えていました。どこの国に行っても人は人だからと。でも人の後ろにはどうしても文化や生活があるんですね。教育やコンプレックスや嫌な経験とか、そんな色んな思いが複雑に絡まっていますから。だけど、それを解った上で、お互いを知ることが大事ですね。これは日本で学んだことですが、自分が控えめにして相手から受け取るようにした方がスムーズにコミュニケーションが取れる。特に違う文化の人に出会った時には、好奇心を持たないと人と出会う必要性がなくなると思うんです。
今は、たくさんの人と出会うより、密にコミュニケーションを取れる人と二人でいる方が心地よいと思うようになりました。二人だとそこで考え方が違ったとしても、きちんと話をすればお互いに理解できるんじゃないかと思いますね。

 

ヨン)少しへんな質問かもしれませんが…もし日本とかイタリアにあるもので、仮に地球から離れないといけなくなった時にこれだけは持って行きたいと思うものは何ですか?日本とイタリア、それぞれで教えていただけますか?

 

ドリアーノ)それは日本でもイタリアでも同じですが、“女性”ですね(笑)。

 

ヨン)次は反対に、日本やイタリアでこれだけは無くして欲しいと思うものはなんですか?

 

ドリアーノ)イタリアだったらいっぱいありますね(笑)。ただひとつとなると・・・・。イタリアの場合は、“適当さ”でしょうか。少しいい加減な部分がありますから。日本はその逆ですね。カチカチのところはもう少し余裕を持ったらいいのではと思いますね。
一度、イタリアに帰った時に体験したことなんですが、イタリアは夜中でもバスが運行しているんです。その時に乗ったバスには12~3人くらい乗客がいて、そこに乗ってきた60歳くらいの人がすごく酔っ払っていたんです。運転手の人が心配して、その酔った人にどこに住んでいるのか?と聞いたら、バス停からすごく遠いところに家があるということだったんです。そこで運転手の人が、家まで送りましょうか?と言ったんですね。そしたら乗り合わせた乗客全員がその言葉に拍手をしたので、バスはそのまま彼の家の前まで行ったんです。僕もその酔って動けない男性に付き添って、家の入口まで送っていって彼は無事に帰り着くことができたんです。それはすごくうれしい出来事でした。もちろん乗り合わせた人みんながうれしがっていました。だから、イタリア人のいいかげんな所は、時々素晴らしいことを生み出すこともあるんです。これは日本ではちょっとあり得ない出来事だと思いましたね。

 

ヨン)今、演劇やダンスの創作で、色んな部分を合わせていく作業をしているのですが、作品の全体を見失いかけているように感じていました。今日お伺いした話で、見えていなかった全体像が少し見えてきたように思います。とてもうれしかったです。今回のインタビューで、作品の本質を見直す機会になりました。貴重なお時間をいただいてありがとうございました。

 

ドリアーノ)さっきの話ではないですが、人と人の付き合いで大事なことは、目を見て話をすることです。私もヨンドゥさんの目を見て、とても興味を持ちました。

 

ヨン)また、ゆっくりお話を聞かせて下さい。また公演前にもここにまたお邪魔させていただきたいと思います。今回は本当にありがとうございました。

 

 

テキスト:筒井亜耶


 

 

日  時:2012年7月30日(月)
場  所:福岡市役所
奥田正浩さん(福岡市 住宅計画課長)

「街とは一体だれがつくるものなのか」という観点から、行政の立場でそのことを専門的に考えている市役所の方にお話しを聞いてみよう、とインタビューをおこないました。奥田さんは10年ほど福岡市の街づくりに関わる仕事に従事していらっしゃるそうです。「2012福岡の都市計画」という資料に基づき、福岡市の特徴や、都市計画がどのように立てられ実施されているのか、説明していただきました。
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福岡市とは、どんな街なのか。
この街で作品を創るために、知っておきたかったいくつかのこと。


市役所職員・奥田さん)場所的には福岡と釜山は対馬海峡を挟んで、向かい合っています。当然、昔から行き来がありました。福岡の場合は都心部も含めほとんどが埋め立て地で、昔は袖の港(そでのみなと)という港があり、ここを中心に博多の商人が韓国や中国との貿易をやって栄えてきた街なんです。
その後、太閤町割(たいこうまちわり)というのですが、太閤秀吉が福岡の町割をしました。京都と同じように間口が狭くて奥行きが広いというような町割で、博多の原型を作ったといわれています。そういう町の原型が出来た後に、黒田長政さんが福岡の筑前一国を与えられ、その居城を福岡城に定めています。その福岡城を中心に、町の中に川が流れているんですけど、それを挟んで京都寄りの方が博多という商人の町で、お城の方が福岡という武士の町と二つの町でした。その後、明治時代、市が出来る時に福岡市にするのか、博多市にするかという話の中で、投票し、結果「福岡市」というものが出来たんです。それから少しずつ周辺と合併をしながら大きくなっていっています。ある程度福岡市が整ったところで、第二次世界大戦があって、その時にこの辺の街中が戦災でかなり焼けてしまったんです。で、戦争が終わって今の町の大部分が戦争復興の区画整理事業という、道路を作ったり、宅地を作り直したりという事業をやっています。
それと併せて海の方も少しずつ埋め立てをやって港湾の整備をするなどして、今の福岡の街が出来てきたという感じです。そこから段々街として大きくなってきていて、朝鮮戦争がある直前位には下関と福岡が韓国に帰られる方の集まる場所になっていました。韓国に帰られる方もたくさん集まっていたのですが、戦争が起こって帰るに帰れなくなった方が結構おられたので、福岡には朝鮮の方、韓国の方、どちらも多くおられる街になっています。それくらい昔から、最近まで人も行き来しているし、お互いに住んだりもしている街になっています。福岡の街づくりの特徴としては、福岡空港という空の玄関口が、都心部に近いところにあります。海の玄関口は博多・中央埠頭の方、陸の玄関口としては、新幹線が走っている博多駅、それら三つの玄関口が近接していて、人の行き来がしやすい街になっています。世界的にこれだけ交通機関が近接しているところは少ないと思いますけどね。
また、いわゆる都心部とそれを補間する副都心がY時の形の構造になっています。都心、副都心にあわせて、新たな拠点という形で東と西にアイランドシティと九州大学があります。九州大学は日本で7つしかない、昔の帝国大学で韓国や中国からの留学生も非常に多い学校です。
福岡というのは適度に都会で、適度に海や山、農地もあるバランスのいい都市ですね。
日本全体は少子高齢化でどんどん人が少なくなっていっていますけど、福岡は平成47年くらいまで、人口が増え続けるという予測になっています。今人口が148万人くらいですけど、一番ピークの時は160万人を超えていく予測になっています。人口が増えてくるけれども豊かな自然はできるだけ手をつけないようにするということで、街中の建物をリニューアルしたりすることに力を入れています。様々な都市内部の問題もありつつ、今の高島市長は、観光ということを切り口に海外から福岡へ来ていただいて、福岡が九州観光の発着基地になるといいなということで、港のあたりの整備などにも力を入れています。
福岡には大きな川がないので水を大量に使うような工場を誘致できないという難しい面もあるので、観光という部分を第三次産業で街をもり立てていきたいというのが大元の発想です。

ヨン)全然知らなかったことを知りました。本当にありがとうございます。市民はこの街で働き収入を得て自分たちの暮らしを支える、その働く環境や生活の基盤を作ることを市の職員の方々がやってくれているんですね。幸福な都市じゃないかなと思います。福岡市を観光化するという事業を進めているということですが、それをすることで色んな弊害が発生してくると思いますが、一番心配な部分はどういったことですか?

財団職員)文化の面からだと、組織変更で今年から集客文化観光局になって、これまで文化振興だけをやっていた局も合わせて「観光」という一つの局になったんです。戦略が変わったことで、これまでは市民の文化振興を目指していたものに加えて、集客という経済効果を目指さなくてはならない。地元に色んな文化団体がたくさんありますけど、本来の文化を振興するということと、集客は別物ではないかと。それをすることによって、今まで一生懸命純粋にやってきたものが少し不純なものと思われるのではないかと、他の文化団体から心配の声が上がっています。

ヨン)都市の構造を目指す時に、何を一番に考えて作られるのですか?

市役所職員・奥田さん)構造でいうと、日本の都市計画の場合は一番最初に道路を決めます。道路を決めて、その交通量とかをみながら建物を作る。それは人間の身体でいうと、骨が道路で筋肉が建物です。だから筋肉ばかりを付けても骨が弱いとすぐにパンクするので、そこのバランスを捉えながら考えていきます。だから最初に道路を作って、建物のボリュームを決めるというのが都市計画の容積率という考え方になります。その中で商業地域というのは、土地面積の4倍~8倍までの建物をたてることを許している地域になります。

日本全体を人間の身体に例えると、東京は頭脳、福岡は右目。

ヨン)奥田さんは市役所に勤務して何年ですか?

市役所職員・奥田さん)市役所に勤め始めて18年になります。福岡市の前は東京にいましたが、公務員ではなかったです。

ヨン)奥田さんから見た、福岡と東京の違いをいくつか教えてもらえますか?

市役所職員・奥田さん)東京は福岡の都心部がずっと繋がっているイメージです。福岡では都心部は天神や博多駅のエリアしかないので、そこに人も施設も集約されるので、商業施設や娯楽施設の集中度合いということで言えば、東京よりも福岡の方が暮らしやすいですね。

ヨン)先ほど、例として骨組みと筋肉という例えをされていましたが、日本をひとつの身体として考えると、福岡はどういうところですか?

市役所職員・奥田さん)身体の部位でいくと、東京が頭脳なんでしょうかね、それに続いていくのは大阪と名古屋ですね。日本の教科書ではそれらの都市を含むエリアを三大都市圏と呼んでいますが、その三つの次くらいにいつも位置づけられているのが、福岡都市圏です。なので、四番目に大事な部位がどこか、ということになるんでしょうけど。次に必要なのはコミュニケーションができることかな。とすると、目で物を観て認識して、口から言葉を発してコミュニケーションをする、ということが次の段階なのだとしたら、福岡は右目かな。たぶん左目が札幌です(笑)。

ヨン)都市が発展する、人間の生活が発展する、その関係性にとても関心を持っているのですが、ソウルでも釜山でも高い高層ビルが建ったり、立派な道路が作られて、生活が豊かになるとは限りません。そのように自分が住んでいる環境の形がどんどん作られていくことと、人間の幸せというのは同じように伸びていくとは思えないですし、やっぱり「都市の発展=ハッピー」という風になるのなら、ニューヨークに住んでいる人、あるいはロンドンに住んでいる人、そういう都会に住んでいる人が当然幸せである筈なですが、今も森の中に住んでいるような原始住民たちの方が都市の人に比べて幸せの数値は高いんです。都市が計画によって発展していくことだけではなく、そこに住んでいる人に幸せを与えるためには何か別の形を考えないといけないんじゃないでしょうか?その目でみれば、都市の発展というのは建物だけではなくて、他の何かを考えていかなければならないのではないかと思います。それに関して、福岡に住む人のために公園や商業施設も作るとは思いますが、それ以外になにか考えていらっしゃいますか?

市役所職員・奥田さん)言われるように都会がいいかどうか、というのは色んな価値観があるので当然違います。この都市計画は何を計画しているのかというと、都市というのは人が集まってできてくるんですが、そこには何らかのルールがないととても暮らしにくい。まずは、その暮らしにくいという問題点を無くしましょう、というのが都市計画の一番始めの思想の中にあると思います。暮らしやすくするための基本的なルールを定めることが大事なんです。その中で色分けをしながら骨格となる道路であったり、建てていい物、ダメな物のルールを決めていっているんです。確かに言われるように色んな施設があって、どういう施設に価値観を見いだす人がでてくるかというところで、この決めた計画の中に色んな物を落とし込んでいくのが行政の仕事なんだと思います。例えば施設を作る時に、人が集まる駅の近くにあるべきものなんだという事であれば駅の近くに建てるというのは、それぞれのセクションでやっていく話なのかなと思うので。ヨンさんのご意見も理解できますし、そういうことを自由に役所の中で発想して意見を言い合いながら市民にとってのよりよいサービスをやっていくのが我々の仕事だと思っています。

福岡市は、「観光」という見地から、アジアの発着地点になることを目指す。

ヨン)自分はアーティストですので、自分のやりたいことをそのまま仕事にできますが、市役所に居る方は市民の声をそのまま聞き入れるということは難しいのでしょうね。

財団職員)民間の方々が文化施設を作る時に、優遇する制度がちゃんとありまして、それは私達文化サイドから要望したのもありますし、都市計画の方でもそれを考えて行っているんです。
さっきの幸せは何かという話の部分で、都市とは多様性だと思うんですね。色んな事ができるから人が集まってくる。その中のひとつとして文化的要素は大事な要素だということで、それは街づくりの視点の中にちゃんと入れてあって、そういう政策もちゃんと入っているんです。

ヨン)自分の個人的な価値観と、市の職員としての価値観のバランスがとれないことがあるんじゃないでしょうか?自分の価値観と市の基準との差はないですか?

市役所職員・奥田さん)当然ありますが、職業として公務員をしているからには、個人の気持ちはできるだけ押さえますね。もちろん一個人として意見を言っていい時であれば言いますけど、そうでないときは公の立場として、個人の意見を主張することはどうかなと思います。

ヨン)これからやりたいことはありますか?

市役所職員・奥田さん)やりたいことはたくさんありますが、何をやるにしてもお金がかかるので、財政的なことをなんとかしてからでしょうね。先ほど言われていた文化施設を作ることにしても、都市として開花させる仕組みを作るにしても、入ってくる税収というのは限られていますので、その税収を高める努力をしないと、本当に投資したいことに投資ができないんです。やりたいことはいっぱいあるんですけど、財布の中に入っているお金の中で何を最優先でやるのかというのは、その時々の社会情勢の課題認識というかそういうことで決まってくるのかなと思います。

ヨン)本当に知らなかったことを、色々教えていただいてありがとうございます。
こういうことを言ってよいものかわかりませんが、どこかで飲みながら話ができたらいいですね。福岡で空きスペースがあったら私を呼んでください(笑)。

佐東)地図をみただけでも福岡と釜山はすごく近いですが、アジアの中の福岡という意識はあるんですか?

市役所職員・奥田さん)福岡市全体で今、25年ぶりに総合計画の策定を始めていますが、やはりそこでもアジアに開かれた中心都市であり続けようということがポイントになっています。大阪よりも釜山の方が近いし、東京と同じ距離だと上海に行けるんです。そういうアジアの各都市と頻繁に行き来をしていますので、我々も当然今後の集客観光という観点が重要と考えています。アジア全域からクルーズ船でお客さんに来ていただいて、福岡を拠点として、九州各地や京都などに行くような、観光の発着地にしていきたいと考えています。色んな世代、色んな人にまずは福岡に来てもらう。色んな人が交流できる街として存在感を出していかないと、福岡の主な産業はサービス業なので、集客ということをかなり考えていますね。



テキスト:筒井亜耶

日  時:2012年7月30日(月)
場  所:市内の通販会社事務所
直村信一さん(通販会社代表取締役)

「物や人が国と国とのあいだを行ったり来たりすること」に強い関心を持っているヨンドゥさん。韓国や中国から商品を仕入れ販売する会社を経営なさっている方にお話を伺いました。この方は実は韓国生まれで、子どもの頃に日本に渡ったとのこと。その頃の経験も話してくださいました。


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日本で事業に成功している在日コリアン。
成功の秘訣と、表には出さない思いとは。


直村さん)韓国に生まれて、戦後、8歳の時に日本に来ました。小学校3年生の時ですから、50年経ちましたね。私はソウルの麻浦(マポ)生まれなので、母親と姉と3人で来ました。今では、ほとんど韓国語は忘れてしまいましたが、自分の仕事は韓国商品の通信販売をやろうと思ったので、再び韓国語を覚えなくてはいけませんでした。お母さんが今91歳です。お父さんは3歳の時に亡くなりました。写真が一枚も残っていないので、父親がわりでしたから日本で精一杯頑張ってきました。この仕事を始めて30年経ちます。

ヨン)30年間通信販売をされていて、主にどのような商品を扱っていますか?

直村さん)日常の生活用品の中で清掃用品が中心です。これは景気が関係なく売れるものだからです。日本のバブル時代は宝石、時計関係が通信販売ではメイン商品でしたが、私は昔からコンスタントに売れる商品(常に売れるもの)を扱いたかったし、宝石は見る目が無いし、私自身が興味がなかったので、爆発的に売れるものは扱いませんでした。

ヨン)自分が持って来た商品が多くの日本の家庭に普及しているのをどう思いますか?ただの商品が、その家庭が幸せになることもあるし、家庭の文化が変わることもあるんじゃないですか?

直村さん)リーマンショックが起こった時に、すぐに日本にも影響があることを想定して、同じ商品でふたつの値段設定をつけました。ふたつの提案書を出したら、リーマンショックの危機で安く売らなくてはならなくて、3分の1以下の金額で売ることにしました。会社の内部でも、放送局の人も、心配していたけど、安く設定した値段で成功しましたね。リーマンショックがあったからこそ、商売のやり方を改めて考え直す機会にはなりました。

ヨン)新商品の博覧会で見つけた商品を買い付けして、実際に送られて来た時に違う商品になっていたということはありませんか?

直村さん)そういうことは多すぎるくらいありますよ(笑)。

ヨン)そういう中国の文化的な特徴、韓国の文化的な特徴、日本の文化的特徴のそれぞれを、社長はわかるのでそれぞれに販売をすることが出来るのではないですか?

直村さん)日本に向けて販売する場合、最近中国での生産の場合、製作を管理することと、出来上がった商品の検品管理までやっています。その辺の感覚が日本と中国では大きく違うので、きちんと管理をしないと日本では販売できないと考えています。

日本では就職することが、狭き門だった。だからこそ、自分で事業を始めることに。

ヨン)日本と韓国の違いを感じるところはありますか?

直村さん)日本には職人の師弟関係がきちんと残っていて、それを継承していく文化がいまだに残っています。それはとても素晴らしいことだと思います。反対に韓国は、そういう師弟関係がなくなってきているように感じます。在日には、就職が狭き門でした。だから、この仕事を始めたのですが、私の会社ではそういう差別はせずに、中国人も韓国人もいます。そういう国籍の区別はインターネットが普及したことによって、無くなってきたように思います。
8歳の頃、日本に来て、小学生の時は全く言葉が通じず、母親にくっついていました。同級生に殴られた後、海辺に行って韓国の方を向いて涙をながしたことも。中学生になってからは、身体も大きくなって自分を殴った同級生に殴り返したこともあるくらい、反抗心がひどかったですね。ある時期からテレビのニュースに出てくる事件の犯人の名前が在日の名前であることを見ては、日本に住んでいる在日という立場では真面目に生きていかないといけないと思いました。理由は自分を育ててくれている国が日本であるからだ、ということです。今では、韓国には必ず1~2ヶ月に一回行って、お墓参りをしています。日本では母方のお墓参りをしています。
日本に住んでいる在日はほとんど同じ状況でしたが、孫正義さんのように、がんばれば成功できるという事例があるので、自分の目標はそういう成功した人をみて自分にも出来ると思って頑張っています。

ヨン)戦後、日韓の関係が悪くなる時期が時々ありますが、それについてはどう思いますか?

直村さん)私は今、帰化して日本人になりましたが、距離的に近い国というのは紛争を起こしやすいし、いい関係にはなりにくいと思います。同じ立場の国になるためには、同じ経済力の高い国力が必要です。日韓の歴史に関しては忘れてはならないものですが、いつもそれを表に出す必要はありません。


情報を得る方法は、机上にいくらでもある。しかし必ず自分で体験してみるべきだ。

ヨン)私も日本に来る度、勉強して帰っています。韓国だったら、ひとつのアイディアを出して、すぐに実行する原動力がある国ですが、日本の会話の習慣、計画性のある仕事のやり方の習慣は、韓国人は勉強しなければならないと思います。

直村さん)残念なことですが、韓国は年配の方や親に対しての礼儀がありましたが、だんだんなくなっていっている気がします。

ヨン)ご家族はいらっしゃいますか?

直村さん)長男が30歳、長女が27歳です。長男は私の会社でネット関係の仕事をしていますし、長女は歌手です。日本に来て、結婚して、子供が生まれて、周りに友達ができましたが、日本で成功して韓国に帰るということを考えましたが、今考えてみればそれは無理な話だったようにも思いますね。

ヨン)私からのアイディアですが、最近の流通している商品は、作っている側からしたら、作った物を誰がどのように使ってくれるのか、買う側からすれば、誰が作っているか、ということを知ることはできませんよね。それを実際に知ることができれば面白いのかなと思います。中国で作った商品を製造から消費者までを追跡していくことができたら、何か思いがけないことが見つかるような気がします。できたらそういうこともやってみて欲しいですね。
私はダンスをする人間で、韓国と日本の間を行き来しながら、こういう企画をやっています。私に何か一言頂けないでしょうか?

直村さん)日本で行っている全ての様子を、なぜ?なんで?という疑問から始まって、それを文化的な立場で理解して受け入れようとする立場を作ってください。情報を得る方法はたくさんありますが、必ず自分で体験することをおすすめします。



テキスト:筒井亜耶

日  時:2012年7月29日(日)
場  所:市内の韓国料理店
福岡在住のアーティストの方

この日は、福岡を拠点に活動するアーティストの方とお会いし、韓国料理店で食事をしながらのインタビュー。この方のおばあさんは実は韓国・済州島のご出身。日韓にまたがるルーツを持った若い世代がそのことをどのように捉えているのか、またどのような未来を描こうとしているのか、ヨンドゥさんにとってもパワーをもらえた時間だったようです。
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知りたいのは、人間の中にある“ただひとつ”のこと。
今、福岡に居て持ち得る、あなたにとっての、ただひとつの価値観とは。


ヨン)日本という国を人の身体にたとえたら、身体のどの部分にあたると思いますか?そして、どうしてそう思うのかを教えてください。難しいとは思いますが、どんなイメージを持っているかを知りたいので。気楽に考えてみてもらえますか?

アーティスト1)私は心臓だと思っています。それはこの場所を生きる拠点にしているからです。ここで生活して、もし別の地域に住むことがあったとしてもここが拠点になるかなと何となく思っているので、心臓かなと。

アーティスト2)消去法でいくと目ではないなと思っています。鼻か口かっていうことになるのかな。とすると、僕は鼻炎で鼻があまり機能していないので(笑)そうすると口かな。それは食という意味でもありますし、福岡に来て、友達と会っている時にどこを満足させたいかというと、目で感動するようなところもないし、だったら口なのかなと。美味しいものを食べてもらって人を喜ばせることができるし。

通訳)私はおへそかなと思っていますね。私にとっては福岡が第二の故郷なんですね。おへそって言ったらみんな意識していないけど大事な部分だと思うんです。身体の真ん中にあるし。おへそっていう感じですね。

ヨン)では、今度は地球全体が身体だとしたら、日本は身体のどの部分だと思いますか?日本人であることを気持ちの中から排除することはできないとは思いますが、できるだけそれを意識しないようにしてみて、どの部分だと思いますか?

アーティスト1)私は地球規模になると少し考え方が変わってきて、おばあちゃんが済州出身なんですけど、それでそっちのことを考えるので、自分が生まれてはいないですが、自分のおばあちゃんの故郷が韓国にあるというのは、常に意識にあるんです。私自身が純粋な日本人であるとはあまり思っていなくて、100%日本人ではないというのが常に意識にあるから、地球を身体にたとえるのは難しいですけど、できれば両手に日本と韓国があると思いたいというのはあります。

福岡を出て行く時にはわからなかった街の良さを、
戻ってみて感じることが出来るようになった。
アーティストとしての可能性を、この街で探りたい。


ヨン)では、また質問を変えます。韓国を地球の中の身体に例えると、どの部分だと思いますか?あまり深く考えずに軽い感じで、いいですよ。イメージ的にどんな感じでしょう?

アーティスト2)僕はそれはここ2~3年で意識が変わってきたように思います。なぜかというと、韓国語を話せるようになったり、接することも多くなってきたので自分の身体になかった部分がでてきたようにも思います。それは触れ合わなかったらそうならなかったと思うけど、触れ合ったから出てきたことだと思います。

アーティスト1)手かな。色んな興味があったり、知りたいことがたくさんあるので。手で掴みたいという感じかもしれません。

ヨン)昨日、違う人にも話を聞いてみたのですが、福岡の100のうち99個が嫌な部分で、1つだけいい部分があるとしたら、どんなことだと思いますか?と聞いたら、それは愛だと言われたのですが。

アーティスト2)僕もそうだと思います。じゃないとやれないと思います。仕事も生活も。彼女のホームタウンだと思えるからこそ、嫌な部分があったとしても許せるんじゃないかな。もちろん今ではそれ以外にもいい部分が見えていますが、4年前はそのひとつだったようにも思います。

アーティスト1)私もある時期、福岡が嫌で出て行ったのですが、その時は福岡のことは何もわかっていなかったんです。戻ってきて知らなかった部分を知るようになって、いい所だなと思いました。ここを拠点にして創作活動をやっていけたらいいなと思って。東京で創作活動をすることが前提で福岡を出たんですけど、戻ってきて福岡を拠点にアーティスト活動がどれだけできるかというのをやってみようと思って。それは私が身を置いた環境が良かったというのが一番かもしれません。

ヨン)もし、日本もしくは福岡のために、韓国や中国を含めた大陸から何か持ってきたいものがあるとしたら、それは何ですか?物だけではなくて哲学や文化なども含めてどういうものを持ってきたら豊かに幸せに暮らせるんじゃないかと思えるもの。

アーティスト1)大陸に比べると日本人は生命力とかそういう強さみたいなものが弱いのかなとは思ったりするんです。全員ではないですけど、日本のアーティストの弱い部分というのは、自己主張がはっきりできないという部分もあるから、そういうのはもっとあったらいいのかなと思うんですけど、でもそうしたら日本の良さはどこに行ってしまうのかな、という思いもありますけど。難しいです(笑)


日本から輸出したいのは、もてなすという感覚。
そこには、マナーやルールには存在しない、人を慮る心がある。


ヨン)反対に、日本から中国や韓国などの大陸にひとつだけ伝えるとしたら、どういうものがいいと思いますか?

アーティスト2)例えば飲食店に行くと、そこでお店の人はお客さんをもてなそうと色々と気遣いをしてくれますよね。もちろん人間はある程度は、そういう部分を持ち合わせてはいると思うんですが、日本人はそういう部分に特に細かいと思うんです。そういう感覚、かな。西洋の作法とかルールとかそういうものじゃなくて、人と人が接する時に、慮る心ですね。それはマニュアルとかルールでは決してないと部分だと思うんです。

ヨン)日本に外国からこれが入ったら、ためになるものがあるとしたら、それはどういうものだと思いますか?もしくは入れて欲しくないものは?

アーティスト1)入れて欲しくないものは、核兵器とか戦争をする武器みたいなものかな。日本にはないですから。

アーティスト2)僕は色んなものを入れてきて欲しいですね。そしてそれが日本でどうなるのかを見てみたい。排除するのか、受け入れてしまうのか。それを見るのは面白いかもしれませんね。拒絶するばかりじゃ何も生まれないですから。さっき何を持ってきたらいいですか?という質問がありましたが、何でも持ってきていいんじゃないかと思います。そこから先、それに変化を付けていくのは日本人ですからね。そこで触れてみて、感じてみて、いいものか悪いものかを認識すればいいと思うし。自分でも海外で何か感動したものや美味しいものに出会ったら、知人や友人に教えてあげたいと思いますからね。それを日本風にアレンジしていれるよりも、そのままのものを日本に入れてみて、どう感じるかだと思うんです。その方が人間っぽい感じがします。

ヨン)韓国の事情から考えると、韓国は今、どんどん新しいものを追いかけていて、色んな古くからあったいいものを壊して新しいものをというのが、物だけじゃなく、考え方にも反映されているんですね。今、資本主義の先端を走っている感じが韓国にはあるので、そういうのは無くなって欲しいと僕は思っています。
韓国は芸術分野でも早く、早く、という感じで急かされて、じっくり準備をして積み上げていくという余裕がないんです。そういう意味では日本から余裕というか、じっくりもの作りをしていくという気持ちを持って行きたい。そういう風に創作活動ができたらいいなと思います。さっき、言われていた日本の気遣いや心遣いというのは、来る度に感じるので、いいところだと思うし受け入れたいものだと思います。



テキスト:筒井亜耶

日  時:2012年7月28日(土)
場  所:九州大学箱崎キャンパス
津田三朗さん(九州大学大学院芸術工学府 技術専門職員)

福岡のアートシーンのさまざまな場面で活躍している津田さんに、九州大学箱崎キャンパスの歴史的な建物などを案内していただき、インタビューをおこないました。このときの出会いがきっかけで、3月の公演を九州大学内でおこなうことになりました。

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作品の舞台は、日本の歴史を包括する「九州大学」。
この時、彼に出会ったことで、創造のその先が見えてきた。


津田)僕は元々福岡の人間ではなく、関西の兵庫県淡路島の出身なんです。中学高校の頃は、在日の人との付き合いがあったんです。僕が子供の頃に住んでいた淡路島ではないですが、お世話になっていた親戚のおじさんたちは韓国の人たちと住んでいる所がすごく近かったんです。近くの川の対岸には韓国の人たちの集落があったことを覚えていますね。他にも中学の時の友達が北朝鮮に帰っていったりして、「木下くん」ではなくて「パクさん」に名前が変わることとか、そういう事がその頃よくありました。関西だったこともあり、そういうことが身近にあったんです。でもやっぱり印象に残っているのは、おじさんの家の近くにある川の向こう側なんです。そこでは豚を飼っていて豚の匂いがするのと同時に、2月になれば旧正月用のチマとか綺麗な衣裳が干されていて、それが風に舞っているシーンなどはすごく印象的なシーンでした。

ヨン)飛行機が落ちたところ、展望台など色んなところに連れて行っていただきましたが、なぜそこに連れて行こうと思われたのですか?

津田)今の僕は、さっき話したような子供の頃の記憶で出来上がっているんです。僕たちが見たものとか、聞いたことで僕らの身体は出来上がっていて、九州大学もたぶん、そうやって出来上がって来たと思うんです。だから九州大学の建物を見てもらいたいというよりも、九州大学の歴史をどういう風に捉えるのか。例えばさっきファントムの話もしたし、九州大学であった生体解剖の話もしました。でもどうしてもそれをやらなければならなかった九州大学というのがあったんだけど、そのずっと前から建っている建物はそういう悪いこともいいことも全部をずっと見続けて来たわけだから、ひょっとしたらその建物の中に記憶とかが詰め込まれているような気がするんです。

ヨン)私にとってもいい時間でした。今おっしゃっている色んな経験や見ているものが自分自身を作っているという言葉に感動しました。韓国は戦争もありますし、韓国の中で古い建物というのは、あまり残っていないんです。資本主義というイデオロギーがあるので、昔の大切な記憶や大切な建物を守るより、新しい経済成長に集中しているんです。だから日本のように古い建物があまり残っていない。韓国の人の頭の中や心の中にはそういった古い建物もありますが、実際にそれを見に行って確かめ、手で触れて感じることはできないんです。ですから、こういう歴史的建物に刻まれた、いい記憶、悪い記憶、目に見えないけれど、長い時間、ここに建っていて歴史を持っている大切な建物がなくなるというのは、もったいないと思っています。

津田)僕も同じように考えていますよ。福岡という街には、残って欲しい物を効率とかで簡単になくそうとする、そういう一面もあるんです。京都の古い町とは少し違っていて、そういうところが、福岡の嫌いなところかもしれません。

 

福岡はかなりいい場所。だが、プロフェッショナルの絶対数が少ない。

ヨン)福岡には何年くらいいらっしゃるんですか?

津田)30年くらいですね。福岡の教育大学に行った後、東京の大学の大学院を目指したものの、名古屋に行ったり、関西に行ったりしながら6年くらいふらふらとしてましたが、最終的に福岡に腰を据えました。

ヨン)今、福岡で学生に教える仕事をしていて、津田さんが若い時に描いていた夢や希望と、今の若者たちの夢や希望は違いますか?

津田)今の学生たちは見通しが効いていて、賢いと思います。僕らほどバカではない(笑)。あらゆる意味での価値観や自分たちのパッションが、僕らは大きな振れ幅がありましたが、今の人たちはその振れ方が少し小さくなっていますね。

ヨン)今の学生たちの振れ方が小さいとすれば、それは何か変化が恐いからでしょうか?

津田)センスやセンシビリティーが劣っている訳ではないんです。例えば、暗いところであれば、暗いところに光の照度を合わせてちゃんと捉えることができる。ただ暗いところにシフトしているだけなんです。だから捉える幅が広いか狭いかでいうと、狭くはなっているんだけど、非常に暗いところで少し、真ん中くらいで少し、明るいところで少しの揺れ幅がある。それらがシフトしていっているんです。揺れ幅が小さいけど、シフトはちゃんとしているんです。

ヨン)繊細だということですか?

津田)そうですね。僕らの頃よりは、センシティブで、そこを選んでいるんです。自分の振れ幅が小さければ、どこにシフトしたら振れるかということを自分たちがよくわかっているような気がします。 
それは自分自身をよく知っているというよりも、自分がどこの部分にいるのか、というのはわかっているんです。それは自分の可能性と言うことではなく、ポジションがよくわかっている。その自分のポジションで最高にセンスを発揮している感覚はありますね。でも他の可能性はあまり考えてないところがあるかな。

ヨン)福岡の全部が好きなんだけど、ひとつだけこれは許せないという部分がありますか?

津田)許せないというよりは、他の所よりはずっといいだろうという考え方なんです。東京よりもかなりいい場所だと思っているし、よく福岡は物がないとか、情報が集まらないという人もいますが、そんなことはないと思います。ただ例えば東京で造型とかの仕事をすると、プロフェッショナルがたくさんいて、頼めばプロにすぐに作ってもらえる。でも福岡にはまだそういうプロフェッショナルが少ないとは思います。

ヨン)逆に、これがあるから福岡に居られるんだという物がありますか?

津田)僕は山笠ですね(笑)。でも一番嫌いなものも山笠かもしれないですね。これがあるとすごく気が重たくはなるんですけど、出るとやっぱりこれが無いと福岡には住んでないだろうなと思いますね。

納得のいく作品作りをして欲しい。
全てそこから始まり、そこで言い終える。
そういう作品が観たい。

ヨン)津田さんの子供さんは大きくなったら何になりたいんですか?

津田)今は絵描きになりたいと言ってますね。儲からないよって言ってるんですけど(笑)。

ヨン)娘さんが望んでいる夢と、津田さんが娘さんに望んでいる夢は同じですか?

津田)たぶん全く違うと思います。

ヨン)娘さんにはどんな仕事をして欲しいですか?

津田)僕は仕事というか、死ぬまで続けられるものがひとつあればいいなと思っているので、何をして、というのはあまり考えていないですね。ちゃんと未来を考えて欲しいし、仕事もして欲しいんだけど、自分が職業としてやることとライフワークとしてやっていくことを分けてもいいと思います。生活をするための仕事については何もイメージはないですね。

ヨン)私は福岡に住んでいないし、福岡についての情報もあまり無いのですが、福岡で作品を作らなければならない。でも、わからないことが多すぎるので今は少し恐いなと思っているんです。いい作品を作る自信はあるんですけど、僕は福岡に住んでいないし、日本人でもないので、福岡に来て何が出来て何が作れるのかを、模索しているところです。もちろん、僕が感じたままに作品を作りますが、津田さんが今、ひとつの作品しか観ることができないとして、それが私が作った作品だったとします。僕にどんな作品を作って欲しいと思いますか?

津田)それはヨンドゥさん自身が納得する作品。ヨンドゥさんらしい作品が僕は一番いいと思う。そこから始まるんだろうし、そこで全部言い終えられるといい。

ヨン)今、色んな人に会って話を聞かせていただいて、作品のヒントをもらっているんですが、やっぱり自分自身が考えている福岡についての作品を作る、話をすると思います。そんな私に福岡の中で、私に見せたい場所とかありますか?

津田)いくつかあります。大黒荘という御供所町にあるとても古いアパートです。他に祇園アパートと言って櫛田神社の近くにある昭和初期の小さなアパートとか。あとは御供所町近辺の博多町家の正福寺や承天寺など、福岡には禅寺が多いので、そういうところは韓国と通じるものがあるんじゃないかな。

ヨン)今回は行けないかもしれないですが、次に来た時にぜひ案内していただきたいです。

津田)ぜひ、行きましょう。博多路地裏探訪とかやっていたので案内しますよ。今では、だいぶ路地裏は少なくなったんですけど・・・。

博多弁で「おうまん」=「Don't mind」
そういう博多気質を、外国に、そして日本の若い世代に。


ヨン)極端な話ですが、全世界の中で福岡だけが平和で、住みやすい街だとして、ここから全世界に向けて提案したいことをひとつだけ挙げるならば、どんなことですか?逆に福岡だけが貧しくて大変な場所だったとして、他の国からどんなものを持ってきたいですか?

津田)博多弁で「おうまん」という言葉があって、それは多分「構わない」「Don't mind」や「Not so but it's so easy」という考え方に近いと思うんですが、博多の人にはそういう気質がある。それと同じで「大体こげなとでよかっちゃないと?」「よかよか」という言葉があるんです。その考え方は、外に出してもいいし、逆に福岡にいる若い人たちはそういう考え方を持てばいいのに、と思うことがありますよ。

ヨン)今の福岡に、他の国から何かを持ってきて良くするとしたら何を持ってきたらいいと思いますか?

津田)カルチャーセンターというか、文化を育てる場所かな。そこにアートセンターが一番必要だと思います。それは自分がやっているからだけじゃなくて、福岡にはアートの要素というのがもともとあるんです。博多人形や博多織など、トラディショナルなクラフトイズムがいっぱいある。釜山とかに行くと伝統的なものを大事にしようという、動きもいくつかあったりするので、そういうものをもっとちゃんとしたらいいのに、って思います。

ヨン)逆に福岡がアジアに伝えたいことはなんですか?

津田)歴史かな。そういうことを正確に伝えた方がいいんだろうとはいつも思っていますね。政治的な事や様々な問題も含めて、決して苦い歴史を忘れ去ろうとか、封じ込めようとしているわけではなくて、事実として伝えていくべきだという姿勢を持った方がいいなと思います。ただどうしても政治的な問題で、日本という国はあまり喋りたがらない人が多いんだけど、今の若い人たちにそれを伝えないという悪い部分があるんです。そこを僕らが話していくべきだと思うし、今の若い人たち同士がそういうことを捉えていくための仕掛けを作らなければと思っています。ただ単にいいところだから来てくださいとか、カルチャーを持ってきたから見てください、というだけじゃダメなんだと思います。



テキスト:筒井亜耶

日  時:2012年7月28日(土)

場  所:糸島市の漁港
梅本政三さん(漁師)

「日韓のあいだにある“海”にまつわる仕事をして暮らしている方にお話を聞きたい」というヨンドゥさんのリクエストで、糸島の漁港で長年漁師をしている梅本さんにお会いしました。梅本さんはお父さん・息子さんと、三代にわたって漁業を営んでいます。お話を聞いたあとに、“お礼”としてヨンドゥさんが踊りを披露しました。青い空、潮の香り、波に揺れる船を背景に踊るヨンドゥさんに、見ていた犬も大興奮!
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日本と韓国を繋ぐ海。その海で働く人の話を、直接聞いてみたい。
海への想い、漁師という生業への想い。


ヨン)どうしても漁師さんたちに会いたかったんです。私は田舎育ちなので、農業をしているところをよく見ていて、やったこともあります。ですが、漁師さんには一度も会ったことがないので、どういう考えをしているか、どんな生活をしているのかがすごく気になっていました。福岡は海が近い街です。その福岡の中で漁師さんは一番大事じゃないかなと思って、今日インタビューをお願いしました。

梅本さん)今は漁師と言っても、高校を出てからなる人が多いですけど、私達は昭和29年に漁師になりましたから。あの頃は高校にはほとんど行かずに、中学を出たら職についていましたからね。僕が中学を出る頃は、水産高校ができて二期生が入る頃でした。ですが私は高校には行かず、親父が漁師の職に就いた方がいいだろうというので、漁師になりました。

ヨン)どんな魚を捕っているんですか?

梅本さん)一艘5トンある船で、この一艘でロープを打ち回して樽をつけて、それでロープを少し引き上げて、一時、曳航するわけです。そしてロープを巻き上げていって、網を海の底から引き上げるんです。そこにかかるのは鯛、イサキが主に捕れます。他にも色んな種類の魚が入りますが、主に小鯛から中鯛、イサキを専門的に捕ってますね。

ヨン)お父さんもおじいさんも漁師ですか?

梅本さん)はい、ひいおじいさんから漁師ですね。

ヨン)小さい頃にこの仕事じゃなくて、なりたい仕事はありましたか?

梅本さん)私は子供の頃から船酔いがひどかったので、本当は漁師は嫌だと親に言っていました。水産高校に友達が何人も行っていたので、そこに行ってみて他の仕事に就こうかなと思ってましたね。別に他にやりたい仕事があったわけではないですけどね。他で何か働こうかなとは思っていました。

ヨン)今、子どもたちも漁師ですか?

梅本さん)子供も漁師ですし、孫も漁師になっていますね。息子は私が行こうと思っていた水産高校を出て漁師になりました。その孫は唐津の国立の技術海淵学校(国立の技術専門学校)を出てから漁師になっています。だから私のひいじいさんから孫まで代々ずっと漁師です。ひいじいさんの頃は釣りがメインで、今のような網ではなくて主に釣りで生計が立てられるくらいでしたね。
昔は網と言ったら、網元といってある程度の格式のある家の人が、道具を全部揃えて人を雇って、漁をやっていました。だからそれ以外の人は釣りで生計を立てていたんです。で、時々雇われたら網元さんのところに行って、仕事をしていたんです。そんな生活でしたね。私も中学校を出て昭和29年から働いていますが、私も網元の親方のところで働いていたことがあります。
でも、船酔いもひどかったので一回辞めようと思って出て行ったんですけど、親に止められて戻ってきました。それからはどうせやるのなら雇われるのではなくて、自分でやろうと思いました。これからずっと漁師をするのなら人に雇われてやるよりは、自分もある程度の経験もしていたので自分でやろうと思って船も買いました。最初から大きな船は買えませんでしたので、中くらいのものを買って。それから大きな船にしていったんです。以来、色々必要に応じて船を買い換えてきています。車と同じで流行りもありますしね。
そうこうしている間に息子も漁師をすると言ったので、親父も引退したので息子と一緒にやっています。今では孫も漁師になっていますので、三人でやっているんです。私も75歳になるので、全て息子にまかせてそろそろ引退しようかと思っていますよ(笑)

親子三代で海に出る。これまでも、そしてこれからも続く“家業”のこと。

ヨン)都心に住んでいたら三代で同じ仕事をするのは難しいと思いますが、ここでは三代で仕事ができています。それを今どう感じていますか?

梅本さん)今は漁も厳しくなってきていますけど、これまでは魚もたくさん獲れていたので、なんとか生計を立てられていましたけどね。でも息子も孫も好きでこの仕事をやりたいというので一緒にやっていますけどね。それで今親子三代でやっていますね。本人が好きなんだったら、別の職業に就く必要はないですしね。

ヨン)今、漁師をして食べていくのは大変になったみたいですが・・・。

梅本さん)今は色んな漁協が合併しています。以前は自分で漁業組合をやっていましたが、国からのしばりでの合併ですからね。新しく漁港を作ったりするためには、そういうこともありますね。漁港の工事はやはり国にやってもらわないと、個人では助成ができませんからね。最初は近隣の2~3の漁協で合併しました。そうすることで後継者もできるし、仕事もやりやすくなりますから。自分で漁業組合をやっていくには色んなことが回らなくなってきたのと、後に自分たちが国からの補助をもらえなくなったりすることを恐れて、やむを得ず合併しなくてはならなくなったんですね。大きな団体になるとメリットもあればデメリットもありますね。

ヨン)それで収入も少なくなりましたか?

梅本さん)そうですね。やっぱり今観光が盛んになってきたことと、一時期は消費者が魚離れしたことがありましたから、少し売れ行きも悪くなって値崩れしてしまいました。
村おこしという名目で、直売所をたくさん作っているんですね。それで魚屋さんの店の棚はどんどん削られてね。そういう地域の情勢もあって、前よりは流通が悪くなっています。量的にもある程度は捕れているんですが、値段も安くなっていますし。これは漁業だけじゃなくて農家などもそうだと思いますよ。消費者の選択肢が増えるのはいいことですが、昔のようにはいかないですね。

ヨン)組合が合併したのはどんな理由があったんですか?

梅本さん)一番の理由は、後継者がいないことです。他の仕事に就く人が増えて、地元に残る若者が少なくなっていた。これは農家の方もそうだと思います。後継者の問題も、設備の問題も、小さな漁港だけでは解決出来なかったことが、ある程度合併することで解決出来る可能性が高くなりますから。それにそうした方が国からの補助もでますから。

ヨン)合併した後、よくなりましたか?

梅本さん)まだ合併して4年弱ですが、目に見えて良くなったというところは少ないですね。不便になったことの方が多い。

ヨン)後継者がいないところにとっては合併によってよくなった部分もあるんですね。

梅本さん)そうだと思いますね。小さなところは合併してよかったということも多いんだと思います。

ヨン)海で働くと危ないことはたくさんあるんじゃないですか?

梅本さん)今は色んな機械がありますが、シケの時に無理して操縦していたら危険ですよね。限られた場所ですから。一時期は事故が多かった時もありました。今はそんなに事故はありませんけどね。今は大型船が中国から入ってきたりするのが、困ったりはしますね。航路と同じ場所で漁をしている場合もあるので、そういう客船が漁を妨げることもあります。あとは韓国や中国からも市場に魚や野菜などを入れたりしてますからね。


山には山の良さがある。でも、見通しの良い海が、どうしても好きなのだ。


ヨン)今陸を見る時と海を見る時の感情は違いますか?

梅本さん)違いますね。旅行に行っても、山よりも海の見えるところに行きたいと思いますよ(笑)。海が見える方がキレイですから。山には山の良さがあるかもしれませんが、私達はやっぱり海が見える方が気持ちが大きくなりますから。

ヨン)今はここに住んでいらっしゃいますが、他の土地の海の近くに住んでみたいと思った事はありますか?

梅本さん)ここが一番漁に適していると思っているので、他のところでやろうとは思っていないですね。ここは自然に恵まれていますからね。こういう環境がないと仕事はできないです。いくら海の近くでも工業地帯があったら無理ですしね。ここは海の汚染があまりないですから。キレイな海です。

ヨン)ここで仕事をしている人たちの未来はどうなってほしいと思っていますか?

梅本さん)私達は中学を卒業してすぐに漁師になりましたけど、今は高校もちゃんと出て勉強して漁師になる人が多いですから、勉強したことをちゃんと生かして、これから先、網の型にしろ、ロープにしろ色々研究してもらって、いい漁ができるようにして欲しいですね。私達は経験だけでやってきましたが、今の人は勉強もして経験もするわけだからね、これ以上に何かやっていって欲しいですね。



テキスト:筒井亜耶

 

日  時:2012年7月27日(金)
場  所: 福岡市東区の団地
在日コリアン2世の方々7名

マンションの1室に、在日コリアン2世の皆さんが集まってくださいました。最初はお互い緊張していましたが、ヨンドゥさんの穏やかな語り口と皆さんの明るさですぐに場がなごみ、福岡の在日コリアンの歴史や、皆さんの生い立ちなどを語ってくださいました。最初の緊張感がまるでウソのような楽しい雰囲気で、ついにはヨンドゥさんの踊りに合わせてみんな踊り出すという場面も。


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在日として、福岡で生活する人たち。
どんな思いで、生きてきたのか、それはどんな人生だったのか。

ヨン)全羅南道霊岩出身です。高校時代に演劇を始めました。もっと勉強したくて卒業後ソウルに行きました。ある劇場に所属して演劇を始め、その中でダンスに興味を持ち、ダンスをすることになりました。日本とは2004年から交流を始めました。昨年末に福岡に関連した作品を創りませんか?という話をいただいたので、全く知らない福岡の街を勉強する気持ちでこの企画に参加することになり、うれしく思っています。実際、福岡に来てみたら、観光以外に知らなかったし、地域のことも知らなかったので、福岡で作品を創る前に、いろんな方と出会うことで知らないことを勉強しようと財団の紹介で日本に住んでいる在日の方に会いたくて訪ねてきました。こういう機会でみなさんと出会えてうれしく思っています。
みなさん、生活の基盤は最初から福岡でしたか?

Aさん)私は山口県出身です。下関です。福岡は我々の同胞たちが多く住んでいます。全国でいえば福岡が同胞が多い地域です。

Bさん)私は北九州から来て福岡市に住み始めてから50年経ちます。

Cさん)ここにいる人の中で福岡で生まれ育ったのは私だけですね。

Dさん)私は神戸で生まれて福岡に嫁いできました。娘は京都に住んでいます。

ヨン)みなさんは日本で生まれましたか?韓国から来たのですか?

全員)日本の生まれです。



Dさん)戦争の随分前、1920年頃に父が稼ぐために日本に来て、母が追って来たんです。そこで生まれたのが私たちです。私は飯塚の炭鉱町で生まれて、86歳になります。それで2世です。在日の中で私の年齢で2世というとおかしいと言われますが、強制連行のずっと前に来たからですね。だから私と同じ年齢だとほとんど一世ですが、私は二世です。

Eさん)両親は向こうで生まれて、私は日本で生まれて6歳の時に終戦になってので、朝鮮に帰る為に福岡に来たら、嵐で船(漁船)が出られなくて留まって、それ以来ずっと日本ですね。

Bさん)終戦後に朝鮮に帰ろうとして九州、山口辺りの人は各地から福岡に集まったんです。最初は漁船がいったりきたりしていたんですが、嵐が酷くなって怖くてみんな帰れなくなって、そのまま福岡に住み始めたというのが、福岡にいる人がほどんどです。

ヨン)だいぶ時間が経ちましたけど、自分の故郷に戻りたいと思わないですか?

Dさん)私は一度も行ったことがないんです。でも行きたいとは思わないです。まだ親戚もむこうにいますが、歳だからある程度交流がないと、そこまで会いたいとは思いません。行きたいならすぐ行けますが、いく必要性は感じません。

ヨン)みなさんはよく集まりますか?

全員)月に2回くらいは集まります。

ヨン)それぞれのことをよく知っていますね。

Fさん)どんなに忙しくても月に2回は集まります。

Bさん)私は子供の頃、よく韓国に行っていました。母親の故郷に時々ついていきました。一番最後に韓国に行ったのは小学校6年生の時、兄弟3人で韓国の親戚の家に行ったのが最後でした。朝鮮学校ができて4年生まではそこに通ったのですが、日本の警察によって行けなくなりました。その頃日本の朝鮮学校は潰されました。

Fさん)我々は日本で生まれましたが、両親がずっと朝鮮語を話していたので朝鮮語が生活の言葉になりました。


月に2度は必ずみんなで集まる。最近は韓国ドラマをみるのが楽しみ。

ヨン)みなさんは福岡に50年以上住んでいますが、不便なことやいいことを聞かせてください。

Bさん)他の地域は台風が来る時期になると大変ですが、福岡はそんなに台風の被害がなくて住みやすいところです。最近はみんなで集まって韓国ドラマをみるのが楽しみです。

Dさん)両親は釜山付近の出身ですから標準語が話せなくて、釜山の方言しか喋れなかったし、それを聞いて育った私たちも、韓国ドラマを見ると標準語で話しているから聞き取れません。最近、若者が喋っている言葉を聞くと何を言っているかさっぱりわかりません。


ヨン)戦後、朝鮮は北と南で自分の国籍を決めないといけなくなったと思いますが、みなさんはどちらを選択されましたか?

全員)北朝鮮籍です。



今でこそ国籍が北と南に別れていますが、私達には関係ない。敵対する必要がないから。

ヨン)みなさん帰るつもりで福岡に集まりましたが、当時帰りたくない人もいましたか?

Dさん)終戦後日本にいたらいつ殺されるかわからないから、怖がってみんな朝鮮に帰りたかったんだけど、私のおじさんやおばさんは終戦後全員朝鮮に帰ったのですが、私のお父さんだけは子供がいるし、帰っても生活をしなくてはならないからその準備をしないといけない(生活の基盤をゼロから作らないといけない)。その準備をしてから朝鮮に帰ろうと思って、稼ぐために日本に残りました。
そのうち年もとって子供も大きくなって帰る必要もなくなって来たんです。なので、帰らずにお父さんの遺言が自分が死んだら故郷(朝鮮)にお墓を作って欲しいと言っていたので、お母さんが骨を韓国に持っていきました。そこでお墓を作ったのですが、お母さんたちが行き来する間は荷物やお金を送っていたんです。だからこのお金欲しさに、お父さんのお墓を整備してくれる人が親戚同士で争っていたけど、お母さんが行けなくなったらお墓の整備をしてくれなくなったんです。そういう親戚とのいざこざはたくさんありましたが、結局はお金のことでしたね。

Bさん)1~2度韓国に遊びに行くために自分の国籍を変えるという必要はありません。自分の子供たちはみんな朝鮮籍です。韓国に行くために国籍を変える必要はありませんし。みんなで月に2回ほど集まっていますが、全員が同じ国籍ではないし、それについては別に気にしていません。歌を歌ったり、体操したり、忘年会や新年会もいっしょにします。今は南と北で国が別れていますが、私たちは別れる前の朝鮮籍だったので、今ふたつに別れても敵対することはありませんね。

ヨン)みなさんの子供さんはどういう生活をしていますか。

Dさん)一番大きな孫は、結婚したし、二番目は高校の英語教師をやっています。東京で在日が主宰する歌劇団でダンサーをしています。その下は朝鮮学校の先生をしています。その下の男も朝鮮学校の先生をやっています。

Cさん)お父さんは戦前稼ぐために久留米の農村に農夫として、働きに出ていました。そこから生活が安定したら韓国にいる母親を福岡へ呼んで暮らし始めました。その時生まれたのが私です。

ヨン)貧しい子ども時代に、親からこれは覚えておきなさいとか、これは守りなさいというような教えがありましたか?

Dさん)その時代は食べることが最優先の時代だったので、そんなことはありませんでした。両親は日本で稼いだお金はすぐに朝鮮へ送って、実際自分の家庭にはお金はありませんでした。それで田んぼを買ったり山を買ったりしていた時代ですね。それで韓国にもたくさんお金を送りましたが、結局終戦後帰れなくなって、送金は無駄なことになってしまいました。お互いに会わないことになってしまったので。

日本にいるからこそ、朝鮮のしきたりは厳しく教えられた。

ヨン)みなさんとみなさんの子供は、同じ国の人と結婚するのが当たり前だと思っていますか?

Dさん)我々の時代は、恋愛自体が存在していませんでした。親が決めた相手と会っていないのに結婚するのが当たり前の時代でした。

Cさん)口減らしの為に娘たちを早く嫁がせたかったということもあった時代です。

Bさん)84歳。生まれも育ちも学校も日本です。韓国語を学んだのは30歳過ぎてから夜学で学びました。そこで言葉と字を習いました。両親は話しているので聞くことはできるけど、話すことは出来ないのでここで習いました。みんながそういう風にして韓国語を習得しました。

Dさん)その時代は、日本語を話せても家の中では日本語を話してはいけないというのが、家庭の決まりでした。(家では朝鮮語を話していた)嫁ぎ先ではとても厳しくされました。嫁いだ時は2着しか洋服はないし食事も一緒にしてはいけなかった。日本にいるからこそ、朝鮮の古くからのしきたりは厳しく教えられたんです。旦那さんはそういう事情を知らなかったので、なぜ一緒に食事をしないのか、と言われたりしていました。日本も朝鮮もそういう時代でもあったので。
日本にある朝鮮学校は、1970年代は北朝鮮から学校への援助はありましたが、日本にいる朝鮮人が自分たちの資産を投資したりして、資金を作らなくてはならなかったし、都心部に学校を建てることはできないので、田舎の山を切り開く作業も自分たちでやっていました。事業で成功して資金をそこにつぎ込む人もいました。

Bさん)飯塚の朝鮮学校は炭坑の町だから、朝鮮人が多かったんです。炭坑文化がなくなって、学生も減っていったし、朝鮮学校は義務教育がないので、2世3世で朝鮮のことを知らないのに、自国のことを学ぶということは難しいことでもありました。子供を朝鮮学校に行かせるお金もないので、学生も減っていて3年前に飯塚の朝鮮学校はなくなりましたね。

生活の基盤は日本、しかし結婚となると話は別。
在日同士での生活になれていることが一番の理由です。


ヨン)みなさんの子供たちは日本人と結婚しましたか?在日と結婚しましたか?

全員)在日の人と結婚しました。

ヨン)そうするように言われたのですか?

Dさん)在日同士で生活習慣が慣れ過ぎているので、日本人と生活するのは苦手じゃないかと思います。日本人でも朝鮮人でもない、そのどちらでもない環境に慣れ過ぎていて在日同士じゃないと感覚の違いがあるんです。

Aさん)それは昔のことで、最近は全部恋愛でしょう。

ヨン)みなさんの子供の中で日本人と結婚した人はいますか?

Aさん)私の子供は男2人とも日本人と結婚しました。子供たちは日本で仕事をしているので、日本人としか付き合いがないですから。それは当然のことです。

Cさん)同じ在日でも、朝鮮学校に行った人と、日本の学校に行った人もいるので、そこでそれぞれにわかれてしまうのは当然のことなんです。国際結婚する人もいるけど、法律の壁にぶつかるんですよ。それは生まれた子供が日本人になるんです。在日をなくすために日本がそういう法律にしたんですよ。
(※現在は韓国側にも出生届けを出せば、日本との二重国籍が取得できる)

Dさん)付き合いは親戚よりも近くに住んでいる友達の方が多いです。日本人との付き合いも多いです。日本人が悪いというイメージがあるけど、実際の付き合いではそういうことは全くない。それはメディアや政治の話だから民間のレベルではそういうことはありませんね。住民同士で挨拶したり交流をしたりすることは大事にしています。

遠くの親戚より、近くの他人。
住んでいる街ではなにも変わらない、ただ国籍が違うというだけ。


ヨン)みなさんの生活と日本人の生活では違いがありますか?

Dさん)他の日本人はわかりませんが、少なくとも私が住んでいる町では何も変わりはありません。ただ国籍が違うだけのことです。それは確信していますね。

Gさん)私の場合は所属している老人会が二つあって、朝鮮人の老人会と日本人の老人会とふたつ行っています。

Dさん)お互いにひとつもらったらひとつ返す、というような同等の立場でいるようにする必要があります。

ヨン)ホントの日本人と在日の違いはどこですか?本音と建前の違いはないですか?

Dさん)本音はその人の中に入ったことはわからないですが、自分にはそういう差別意識はありませんね。昔は朝鮮人でも日本人でも同じ長屋みたいなところに色んな人が生活をしていて、それぞれに助け合ったりしながら生活をしていたのですが、今はひとつのマンションに住んでいる人同士ではそういう交流はなくなってきましたね。以前の方が人同士の交流がたくさんあったのでよかったですね。

ヨン)福岡を知っていくためには、本当のことを知るきっかけになりました。私がみなさんの昔話だけを聞いて帰るのは申し訳ないので、韓国の音楽を流しながら韓国の伝統の踊りをしたいと思います。青春歌という曲で民謡を踊ります。



テキスト:筒井亜耶

日  時:2012年5月9日(水)

場  所:筥崎宮・箱崎漁港、アジアンハイウェイ式典、玄海島

この日はまず筥崎宮とその近くの箱崎漁港に立ち寄りました。博多湾から本殿まで長くつづく参道が美しい筥崎宮。海上交通・海外防護の神として信仰されており、参道の先の海岸は、博多名物“山笠”の儀式「お汐井とり」の場所でもあります。
次にベイサイドエリアへ。東京・日本橋からトルコまでつづく「アジアンハイウェイ」ルート1というのをご存知でしょうか。福岡−釜山が唯一の海路としてそのハイウェイの一部に認められたそうで、式典がおこなわれていました。たしかによく見ると、福岡都市高速に「AH」(アジアンハイウェイの略)の看板がつけられています。この道が海を渡ってトルコまで続いているのかと思うと、ロマンがあります。
そして、「港から船に乗りたい」というヨンドゥさんのリクエストで、市営渡船に乗って玄海島に行ってみることに。博多港から約30分。この島は、2005年におきた西方沖地震で多くの被害が出ましたが、今は家も新しくなって整備されていました。ふつうは1時間で1周できる島ですが、我々はじっくり味わいながら歩いたので2時間かけて1周しました。海岸にはハングルが書かれたペットボトルや缶が漂着していました。


日  時:2012年5月8日(火)

場  所:博多港・福岡市博物館

プロジェクトのはじめの一歩として、ヨンドゥさんから港を見たいというリクエストがありました。人々がどこからか来てどこかへ行こうとしている場所である港。その港や海というのは日本・福岡の人にとってどのような意味を持つのだろう、というのがヨンドゥさんの最初のインスピレーションです。
博多港には大小の船が次々に往来します。実は博多港は外国人旅客数日本一の国際ターミナル。年間約87万人が乗り降りしているそうです。ちなみにそのうち80%が韓国航路。釜山まではここから高速船で3時間です。港のコンテナヤードでは、コンテナが次々とパズルのように積まれたり下ろされたり。ヨンドゥさんはそのようすをとても興味深く観察していました。
また、この日は福岡市博物館も訪れ、古代からの日韓の交流について学芸員の方に解説していただきました。


「高校生のためのワークショップ」
2013 年3 月4 日(月)@福岡県立福岡講倫館高等学校
■対象:福岡県立福岡講倫館高等学校
■参加者:10 名
チョン・ヨンドゥ氏の福岡滞在に合わせて、合間にお時間をいただき、福岡講倫館高校でのワークショップ指導を依頼しました。「どうやったら、言葉に出さずに相手の気持ちを汲み取れるか」「パートナーを信じて身を任せることができるか」「物事を観察するとはどういうことか」など、演劇人にとって重要な要素が沢山盛り込まれた内容でした。


<参加者のアンケートより>
演劇部に入ってよかった、そのおかげで今素敵な出会いや経験ができた/新しくて斬新な考えが参考になりました/もっと交流したかったし、またこのようなワークショップがあれば参加したい/みんなの個性が光っていた/最初は自由に動くことが出来なかったけど、最後はのびのびと動くことができた/普段から五感をつかって周りの物を感じ取ることが大切だと感じた。

 

 

「身体と動きのワークショップ」
■日時:2012年7月27日(金)18:00~20:00
■会場:ぽんプラザホール
■対象:福岡在住の外国人の方、またはこのプロジェクトに関心のある日本人の方
■参加者:22名

日本を含む6カ国の方が参加。韓国語・日本語・英語、と三カ国語が飛び交うワークショップで、初めはみなさん少々緊張気味でしたが、からだを動かすとすぐに打ち解け、笑顔や声が出ていました。

<参加者のアンケートより>

声を出して、息を出し、踊ることがすごくおもしろかった。いろんな国の人とやると、からだの使い方など様々でおもしろかった/みなさん色々な国から来てるだけあって、ユニークで楽しかった。/ダンス未経験者なので最初は戸惑いましたが、気持ちよくできました。ダンスに国境はないですね。/体を動かして国際交流するのは初めてだったし、最初は恥ずかしかったけど、すごく楽しかった。/My body feels free and enjoyed.

2012年12月8日(土)15:00~16:30
会  場:福岡市文化芸術振興財団 会議室
対  象:30代以上の男性俳優/ 参加者:8名

3月に公演するひとり芝居の出演者を選考するためのオーディションを実施。福岡を拠点に活動する俳優さんたちが集まってくれました。ストレッチや2人組でおこなうシアターゲームから始まり、それぞれが事前に準備してきた「ひとり台詞」をさまざまなシチュエーションで披露。ヨンドゥさんが「皆さんにお土産です!」と持ってきてくれた韓国のお菓子をみんなでつまむ、和やかな時間もありました。






2012年9月22日(土)19:00~21:30
会  場:福岡市文化芸術振興財団 会議室
対  象:30代以上の男性俳優/ 参加者:8名

3月に公演するひとり芝居の出演者を選考するためのオーディションを実施。福岡を拠点に活動する俳優さんたちが集まってくれました。ストレッチや2人組でおこなうシアターゲームから始まり、それぞれが事前に準備してきた「ひとり台詞」をさまざまなシチュエーションで披露。ヨンドゥさんが「皆さんにお土産です!」と持ってきてくれた韓国のお菓子をみんなでつまむ、和やかな時間もありました。

<オーディション後のヨンドゥ氏のコメント>
皆さんとご一緒した時間は、とても楽しく有意義なものでした。また、最善を尽くしてくださった皆さんに大きな感動を受けました。ですので、皆さんの中から一人を選ぶということはとても難しいことでした。このプロジェクト以外でも、是非いつか皆さまとまたお会いして、一緒に作業してみたいと思っています。

 

dijest